安息地の鍵は餡子にあり


「はぁっはぁ……」
 
 とある一室で、何とも悩ましげな息遣いが響いていた。
 一人の少女はうつ伏せになりながら柔らかなクッションを抱え、それに顔を埋めている……そんな彼女に覆い被さるように、少年はふるふる震える頸を眺めていた。
 
「んっ、んん……!」
「無理に我慢しなくていいよ、声」
「ぅあっ……」
「大丈夫?痛くない?」
「へ、いき……!ぅ、」
「ちゃんと気持ちいい?」
「ん、うんっ……あっ、」
 
 少年が少女の足に触れた。その滑らかな白い腿はまるで肌が波を打つようにふるりと揺れる。
 少し強めに指を落とされた少女はびくりと跳ね、縋り付いていたクッションから顔を上げてしまう。堪らず口を開き、そこからは短い吐息も漏れた。

「ここ?」
「そこっ、そこ、イイッ……!」
「分かった」
 
 そろそろ四月も終わる頃だというが、まだ汗ばむには早い時期……だと言うのにも関わらず、少女の身体はしっとりと濡れ、彼女の体に触れる少年の肌をも潤している。

「シズ……」
「あっ、あ、チヒロくん……!」

 その少女……いや、静姫は苦しげに声を上げたが、それでも激しく求めるように少年、チヒロの名を呼ぶ。
 チヒロは彼女の声に応えるため、みしりと畳を押し潰すかのように音を鳴らしては、さらに体を傾けさせ……

 ガラァッ!

「……」
「あ、柴さんだ」
「こんにちは」
「何してん、二人とも」
「シズが筋肉痛で死ぬというのでマッサージを」
「ああ〜!そこマジでいい!もちょっと強めで!」
「はいはい」
「んぁあ〜〜〜ッ!」
「やかまし」

 まあ、普通にただのマッサージの話なのだが。
 ちなみに、至って健全且つ健康を維持するためのマッサージに割り入った……どこまでも無表情な柴の心境はこうである。
 いや、最初から分かってんねや。こぉんな時間から十一歳のチヒロくんがお盛んなことするわけないやろって。シズちゃんは知らんけど。
 ただ、そのシズちゃんのお声がどうにも、こう……アレなやつやねん。
 もしも十一歳の俺が同じ立場にいて、意中の相手がそないな声出しとったらちとムラつくもんやけども……流石はチヒロくん、邪な感情が一切も見えへん。完全に筋肉捏ねる職人の目をしとる。君は神童や。

「なんでそんな筋肉痛になったん?」
「え?もしや心当たりがない?冷たっ師範冷たっ……!師範に課された筋トレに勤しんだからですが?」

 静姫が柴に弟子入りを果たしてから二年以上が経った。
 弟子入りとは言っても、彼女の目的は『剣士』になりこの家の護り手となること。しかしながら、柴は剣術に関しては全くの専門外で、教えられる事など何一つなかった。
 今となっては最早、懐かしいものだが……柴が静姫にそれを伝えたとき「よくそれで師範を請け負うと言えましたね。恥ずかしくないん、でっダギャーーーッ!」といった具合に逆エビ固めを決めたものだ。調子に乗るな、と。
 柴の考えとしては、知人に静姫のことを気に入りそうな剣豪がいるため剣術自体はその人物に教わること……そして、彼女の才能の一つである妖術、及び素手での戦闘技術を高めることは自分の分野にすると決めていたのだ。
 しかし、その剣豪がどうにも偏屈な女であり「雑魚に教えることなど何もないわ」と一蹴されることは明白だった。玄力を体に巡らせることはできるとは言え、元々の体は劣悪な環境で生きてきた痩せ細った女児。そんな静姫ではその剣豪のお眼鏡にかなうとは到底思えない。
 そもそも、静姫は全国で指名手配されている身の上だからそう易々と外に出すことは危険……だからこそ、まずはこの六平家で彼女の身体作りのため、玄力使用の上での筋トレを優先させてきたのだ。
 
「せやかて最近は慣れて楽々こなしてたやんけ」

 静姫はそれはそれは実直に柴に課された訓練をこなし、一日たりとも疎かにしたことなどない。どれだけキツかろうと彼女の六平家の為に生きるという覚悟の前では塵に等しかった。
 徐々に徐々に回数や負荷などが増えていくメニューも、どんどん逞しくなっていく自身の身体にも静姫は達成感を確かに感じていただろう。
 そして、静姫の戦闘の才能は妖術だけに限らずステゴロも優秀である。彼女は最早、ただの痩せ細ったか弱い女児ではない。流石に柴には到底敵わないとしても、玄力など巡らさずとも大抵の大人は軽々と延してしまえる程の力を身につけた。
 だからこそ、この二年以上に鍛えに鍛えてきた静姫が、このように弱っている姿など柴は久方ぶりに見たのだ。彼が不思議に思っても仕方ないだろう。
  
「今日は素振りだけで終わらせたかったので、昨日は二日分の筋トレやったんですよね」
「心当たりあるワケないやろ」
「一日で全メニューを千回はヤバいよ」
「イケると思ったんだよぉ」

 まあ、その真相は「そりゃそうもなるだろ」という話なのだが。
 最近になってやっと「五百回ずつ」と言い渡されたというのに、今日は少しサボりたいから昨日にやってしまったということか。
 ちなみに、木刀もとい羊羹丸で素振りをするのは千回ずつ……今日、その素振りを終わらせた時には、既に全身の筋肉はすでに悲鳴を上げていたそうな。そこへチヒロが静姫を救助し今に至る、というわけである。
 ちなみに、チヒロの証言によると静姫は日が傾き始めていた庭で一歩も動けず地にふせていたらしい。乾涸びた死体のような彼女を目撃した彼は大いにビビった……んなアホな、と。
 しかし、彼女が何故『んなアホな』ことをしてしまったのか。柴にもその理由についての当たりは簡単についた。
 何故なら今日は……。
 
「いくら今日が誕生日だからって」

 今日は四月二十一日……つまり、静姫の十三歳の誕生日であるからだ。凍霞家の手配書が配られてから彼女は、今日をもって無事に三度目の誕生日を迎えることが出来た。
 だとしても、だ……と、柴はため息を吐く。

「シズちゃん、あんなぁ……トレーニングは毎日欠かさず続けなあかんねん。今日のところはもうええけど、今度からメニュー回数は必ず毎日ノルマをきちっとこなしぃや?」
「えっ今日は許してくれるんですか?うれしっ!お誕生日特典!?」
「ぬかせ、今が夕方やからや。今から始めとったら深夜になるわ。六平には迷惑かけられん」
「誕生日でも容赦のない男だということを再確認致しました。流石は我が師範、血も涙もねえ」
「よっしゃ柴さんもマッサージ手伝ったるわ。まずはぁ〜肩外すとこからぁあッ!」
「ちょ冗談ですってすみませイデデデデダァってェエッ!今年の誕生日くらいはただ労られつつ祝われる日にしたかったんだもんんッ!」
「労られつつ祝われる体力残してて欲しかったよ」
「だから誕生日プレゼントはマッサージフルコース頼んだんだよっ今まさに労られつつ祝われてるとこなの!」
「……そう」

 チヒロは人知れず、ふいと視線を下げた。その視線は何とも悩ましげだ……彼の胸中を落ち着かなくさせる原因はやはり目の前の静姫にある。
 あの日からもう二年以上経ったが、彼女はこの六平家から一歩たりとも外へと出歩いたことはない。
 存在を秘匿された『六平国重の息子』であるチヒロでさえ「たまには外で遊んできんさい」と父に言われるがままに、外の世界を見に行ったりするというのにも関わらず。加えて、柴が付き添いであっても、だ。
 『四十万静姫は六平千鉱と一緒に外で遊びたがるもの』……特に確たる根拠はないが、チヒロはそうに決まっていると勝手に思い込んでいた。だから最初の数回こそ彼は「シズも一緒に来るよね?」と聞いていたが、その問いに対して彼女はいつもこう返していた。

__『あー、と。私はお昼寝しとくよ。シズちゃんは自宅警備員志望だからさ』

 まるでダメ人間のような発言であるが、遊びに行くだけだというのにそんな訳のわからない理由でいつも断られてしまう。これがチヒロにとって不可解すぎる事実で当時は非常に困惑した。
 しかし、チヒロが『静姫も外に連れて行かないのか』という話題を出す度に、静姫だけでなく大人たちさえ揃いも揃って困ったように笑って、その後は何も言ってくれない。柴なんて「おうおう眠らんときちんと警備せえや」なんてことを言いそうなものなのに。
 だから、次第にチヒロも『そういうもの』なのだと納得していった。チヒロは別に察しが悪いわけではない。元々、静姫の生い立ちは暗いものだし、子供であるチヒロが知るべきではない複雑な事情があるのだろう。チヒロには外に行け、と言うのに静姫にはそれを勧めない国重がその証拠だ。
 そう『外に出ない』のではなく『外に出られない』……その原因は何らかの事情があるからであって、決して自分と出かけたくないわけではない。そういうことなのなら、チヒロとしてはまあ、別に良かった。スッと納得できた、うん。
 しかし、納得はしていてもチヒロには困ったことがあった……というか、今まさに困っていたりする。
 彼女が彼と共に外に出ない、ということはチヒロの中でリスト化されている『静姫の欲しいもの』のレパートリーを非常に増やし難いことを意味するのだ。
 チヒロは勿論、静姫に絶大な信頼を寄せられている自負はあるし、彼女の食の嗜好も把握しているつもりだ……というか、自分が食育したまである。カブトムシを平然と食していた過去があると聞いたその時に「俺がシズの健康を守ると決めた」みたいな思考になったことは今でもよく覚えている。
 しかし、そういうことではないのだ。日常的に何が欲しいか等は完璧にわかっているつもりだが……『記念日』というこの日にチヒロは静姫に特別な何かをプレゼントしたいと思っているのだ。
  
「ぁあ、めっちゃ良」
「……はいはい」
「んぉお〜〜〜ッ!」
「やかまし」

 しかし、静姫がチヒロに求めたものは筋肉痛を和らげるためのマッサージだった……そんなもの、いつだってしてあげられるだろうに。
 ちなみに静姫が今、顔を埋めている茶色のクッションは国重からのプレゼントであり名を『おはぎ』という。さっき彼女が二秒で考えた。そして静姫が身につけている浅縹色の甚平は薊から、涅色のレザーグローブは柴からのプレゼントである。
 何だっていうんだ。シズは俺のだっていうのに、彼女の身に纏っているものや使っているものは俺からのではなく他の男達に贈られたものばかりじゃないか。俺だって、形に残るものをあげたいのに。
 そんなことを言えばきっとみんなは「チヒロが贈るものなら静姫はどんなものでもきっと喜ぶよ」と返すに決まっているし、事実そうなのだろう。
 だからこそ妥協をしたくないのだ。自分がしっかり納得のいく贈り物をしてしっかり喜んでいただきたい……しかし、大人達と違ってチヒロはまだ子供であり、プレゼントというもの選択肢が非常に狭い、狭すぎる。
 それ故、数少ない貴重な外出の際には静姫と共に歩き、彼女が何に関心を示し、何を好ましいと感じるのか。そういった知見をチヒロは得たいのだ。
 チヒロは「おしまい」とでも言うように静姫の背中にぺちと手を置く……今年の彼女への誕生日プレゼントがこのまま終了するのはなんだか寂しいな、と思いながら。
 何かいいのはないか、どうしたものか、とチヒロは思考を巡らせ……たはいいものの「あーいや、なんかもう考えるのも面倒だしこうなったら直接聞くか」という結論に落ち着き、そのまま口を開いた。

「シズはもっと他に欲しいものないの」
「えー欲しいもの?」

 そんなチヒロの言葉に柴はピクリと反応を示したかと思えば、静かに息を殺しながらも全体の空間を俯瞰するように視野を広げつつ、全身全霊を持って二人を観察し始めた。
 もうチヒロには分かる。あーはいはい、いつものアレですね。おしかぷ?センサー受信しててんって薊さんと話してるの聞こえてましたよ。
 あのチヒロがそんな投げやりな思考になるくらいの頻度で柴、そしてたまに薊はチヒロと静姫の周りの空気と同化するような態勢を取り始めるのだ。ちょっとあんまりよくないことだと思う。

「ちから」
「そういうのじゃなく」
「圧倒的武力」
「何も変わってないよ」
「えー、美貌はもうあるしな……」

 寝そべったままに、ふざけたような返答をする静姫だが、彼女はまあまあ真面目に言っている。
 自己肯定感を上げるために血を吐く思いで己を褒め続け二年以上たった現在……彼女は立派な自己愛とオリハルコンメンタルを身に付けた。よく頑張ったね。
 そんな静姫だが物欲が少ないのか、然程物を欲しがらない……おそらくは以前の生活が影響し「人間的な生活が出来れば御の字」という思考に陥りがちなのだろう。こういった事情もあり、チヒロは余計に静姫の欲しい物が分からず、頭を悩ませてしまうのだが。
 しかし、その代わりに彼女は形のない何かを意欲的に欲しがる傾向にある。
 静姫の口から出るそれが、日常的に出来るものではなく、記念日だからこそ……特別感のある何かであれば、チヒロにとってとても有難いのだが……。

「あっじゃあ料理!料理したい!」
「それだけは絶対にダメ」
「チヒロくんに同意やね」

 まあ、だからと言って何でもかんでも許せるわけではないのだが。
 
「は!?なんでぇ!?」
「ぜっっったいにだめ」
「胸に手を当ててよう考えや」
「いいじゃん今日くらい誕生日なんだからさぁ!」
「誕生日を命日にさせるわけにはいかないんだよ」
「シズちゃんはアレでよう柴さんのズタズタりんごを初手で貶せたもんやと思うわ」
「まず切るまでいけたら奇跡ってレベル」

 四十万静姫は日常的に料理をすることは許されていない。理由はシンプルに彼女が料理が壊滅的に下手だからである。
 それは決して味覚の問題ではない。静姫はチヒロによる食育のおかげで、衣食住が安定した環境にいながらその辺の虫を食うなどという愚行をしなくなった。
 しかし、何故か静姫は驚くほど調理器具との相性が悪く、それらを手にして料理をしようとすれば二秒後には怪我を負う。意思のないはずの調理器具に嫌われてるとしか思えないくらいに。

「いやいや、でもさ!?私って卵黄と白身を分けたり、絹さやのスジ取ったり、きびなごの肝抜きとかの下拵えは結構上手じゃん!食材との相性は良い方じゃん!」
「食材とはね」
「ダンボールで燻製器作ったり焚き火起こして魚炙ったり……!サバイバルで役立ちそうな調理スキルはあるじゃん!」
「サバイバルではな」
「つまり料理というジャンルでは全く才能がないわけじゃないの!」
「不思議なことにね」
「なんでなんやろね」
「だから文明の利器との和解もきっと可能なはずなの!」
「そう思って何度も調理器具持たせたけど、そのどれもが全てシズに牙を剥いてきたよね」
「呪われてるとしか思えんわ。文明が発達する以前に還った方がええんとちゃう?」
「柴さんそれ私には文明人としての才能がないって言ってますよねそれっ!」

 静姫はべしべしと手のひらで畳を叩きながら、自分の文明人としての尊厳を保とうと反論を続ける。以前はカブトムシ食ってたくせに。

「じゃあ何!?チヒロくんも裁判や民主主義を知ってる私を文明人じゃないと思ってるって!?」
「そうは言ってないけど、とりあえずシズが調理器具を上手く扱えるようになるの……天地がひっくり返ってもあり得ないと思う」
「天地ぐらい私の手にかかれば簡単にひっくり返せるけど!?」
「文明人じゃなくない?最早それは」
「柴さんはシズちゃんが柴さんに勝てるくらいあり得へんと思ってんけどなぁ」
「じゃあ私が柴さんのことボコボコにすれば包丁持たせてくれるってことでいいですか!?」
「おぉ、やれるもんならのぉ」
「……」

 静姫はちょっとだけ考えた、本当にちょっと。
 その思考の内容は今までの柴との組手のこと。まるで精密機器が演算するように一挙手一投足、隅から隅まで思い返す。
 その上で、彼女が弾き出した柴への勝率は……。
 
「……ちきしょおおおおおッ!」
「えぇ……?」

 全くのゼロ、不可能、無理である。
 天地をひっくり返すことはできると豪語しながら、それでも柴相手には勝てないと挫折する静姫にちょっと引いているチヒロをよそに、彼女はどん!と今度は拳で畳を一度、力の限り殴った。みしっていった。
 待ってよ、柴さんに勝てないってことは、本当に私は調理器具を扱えるようになるのは絶対不可能ということ……?
 そんなっ!私は、私は!こんなにあなた達の事を想っているのに……!
 嗚呼、なんと哀れな片思いなのだろう__heartbroken forever.
 そんな耐え難い苦しみにさめざめと涙を流しながら、静姫は眼前にある柔らかくて茶色いそれに顔を埋め、ぎゅむと抱きしめ始めた。

「あーらら、いじけてもた」
「おはぎだけはずぅっとやさしい」
「俺はマッサージしたんだけどな」
「おはぎだけは私に酷いこと言わない」
「シズチャンノ頭ハエライ軽イナー!」
「おはぎはそんなこと言わないィッ!」
「なんでそないにバチギレできんねん」
「おはぎに全幅の信頼寄せすぎでしょ」

 まあ、何はともあれ。
 泣いたり笑ったり怒ったり……そんな平和な日常を過ごす四十万静姫、十三歳であった。