それでも不変を尊びたい


「さーあ御二方お待ちかね!四十万静姫ちゃんの故郷、イチオシスポットに御到着!デデンッ!これなーんだ?」
「ただの川やね」
「ただの川だよね」
「せーかいっ!ただの川です」
「ほんまに『ただの』なこと、あるかーいっ」
「日常にある何の変哲もない存在……それこそが一等尊ぶべきものということをよく理解してる、私ことシズちゃんはとっても偉いと思う」
「なんか言ってる」

 お天道様こと日向さん宅の角を曲がりしばらく進んだかと思えば、そこには浅瀬の広がる川があった。
 どこからどう見てもただの川なのだが、やけに顔を輝かせ妙なハイテンションで二人に紹介しだした静姫の様子を見るに、彼女にとってのお気に入りスポットであることは間違いなさそうだ。

「きゃあ〜!まだここある!パンダカパンカなくなってたのにここはまだある!」
「そら川は早々なくならんやろ」
「天変地異がない限りはあるよ」
「私に手にかかれば天変地異くらい簡単に引き起こせる」
「なんか言ってる」

 川へと向かう途中で、静姫はよくお世話になっていたパン屋の姿が消えていたことに気付いた。ほんの少し寂しさを覚えたものの、彼女にはある程度予想出来ていたことでもある。

「(紗凪さん、が……いなくなっちゃったもんね)」
 
 パンダカパンカの店主である半田さんは全体的に治安の悪いこの街で過ごすことをどこか息苦しく感じていた様子だった。それでも彼がこの街に居続けたのは紗凪のことを好いていたからである。彼女がこの街で苦しんでいたことが心残りだった彼はこの街の重苦しい空気に怯えながらも、ずっと紗凪のことを案じていた。
 そんな紗凪がこの街から去ってしまったのなら、彼がこの地に居続ける理由は何一つない。きっと、ゆっくりゆっくりいろんなものを整理して準備して……しっかりこの街に別れを告げたことだろう。
 半田さんはきっとこの街の土を、静姫がまた踏んでいることなんて夢にも思わないだろう。彼はあの時に彼女の早とちりで四十万母子が円満にこの街から出ていったと勘違いしただろうから。

「(半田さんには、悪いことしたかな)」

 それでも、それが彼の幸せだったはずだと静姫はよく理解している。無意識のままに生活の軸にしてしまう程に半田さんの心に侵食していた……謂わば、彼にとってのファム・ファタルであった紗凪。その彼女が今頃、凍霞家の穢らしい欲を満たす存在になってしまっていると知ることがあれば、彼はもしかしたら苦しみ抜いて自死を選んでしまうかもしれないから。
 静姫だって出来ることなら、真実を知りたくはない。でも、紗凪に関することに目を背けることは、四十万静姫として生きる彼女の道理に反する行為だ。だから、しっかり全てを受け入れる必要があった……おっと、いけないいけない。静姫はその思考をプルプルと首を振って、頭から弾き出す。これは、今考えるべきことではないはずだ。

「別に私だって川がなくならないこと自体は分かってるよ。私が言ってるのはアレのこと!どうやらお変わりないご様子で……!」
「……アレって何?どれのこと?」
「土手しかあらへんけど」
「土手ですけど」
「土手かい!」
「いやっただの土手じゃないですっ!座ると気持ちよく川を眺めることの出来る、ちょうどいい傾斜の土手です!」
「世間様はそれをただの土手と呼ぶんやで〜」
「世間様とか知らねここでは私がルールです」
「なんか言ってる。お天道様差し置きながら」

 静姫がピシッと指した先にあるのはやっぱり土手。二人にはそう見えていても彼女にとってはちゃんと気に入っている理由があるらしい。二人の反応に対して不満ですの感情を隠すことなく頬を膨らませている。

「もうっ!いいもん私が良いと思ったのなら!チヒロくんっ!」
「えっ?なに、うわっ!」
「こっちきて!私はチヒロくんと一緒に川を眺めたくてここに来たの」
「なんや?柴さんは仲間はずれかいな」
「当たり前です。これデートですよ!」
「……ッ!?ラジャー!」
「シズって長閑なデートが好きなの?」
「誰が婆ちゃんだって?」
「言ってない言ってない」

 チヒロは静姫に腕を引かれながらも頭の中でシャカシャカと情報を整理していた。
 派手に遊ぶというよりはのんびり伸び伸びするのが好きなのだな。この感じだと、多分シズはお散歩とかが楽しいタイプだろう。じゃあ、贈り物は歩きやすいスニーカーとかがいいだろうか。それとなく散歩の話題でも出そうか……シャカシャカシャカシャカ……。
 やはり共に外へ出かけるというのはその人となりを知る上で、とても良い機会になるらしい。良かった、デートできて。デート……うん、なんか改めて考えると普通に嬉しい。

「ここ、ここがちょうど良いんだよチヒロくん。ここだけ少し土が抉れて大きめの石が埋まってて……足を乗せてると体勢が少し楽なの」
「ちゃんと拘ってるんだね」
「っ!そーだよっそーなんだよ!私はちゃんと土手をソムリエってるの!」
「土手ソムリエ……」

 静姫はそう言いながら、その場に子供二人分座れそうなくらいのタオルを広げ始めた。ズボンが土で汚れないようにだろうか。どうやら彼女は本当に最初からこの川を二人で眺めたかったらしい。
 静姫は埋まっている石に足を乗せる形でぽすりと土手に座り込み、ぽむぽむと自身の横を叩きチヒロにも座るように促した。
 その石はちょうど二人分の足が乗せられそうな大きさ……まるで狭いベンチのようである。

「一緒に座ろ?」
「……」
「えっ」

 静姫は未だ座ろうとしないチヒロを見上げながら目を丸くしては至極意外そうな声を漏らした。
 彼女が座り込んだままチヒロに座ろうと言った瞬間に、彼は視線を移しては彼女が促したその場をスーーーッと上から見下すような鋭い視線を向けたのである。
 そんな反応をされるとは思っていなかった静姫は『たとえタオルを敷いていたとしても地べたに座るのはNG派だったのだろうか?』と、無言のままのチヒロを見つめ続けることしかできなくなった。
 チヒロが何処となく不穏なオーラを放っているため、ばくばくと鼓動を打つ心臓がやけにうるさい。
 しかしながら、静姫が狼狽えている原因のチヒロの心情といえば……彼女の思考とは大きく外れている上に至ってシンプル。

「(近すぎるだろ)」

 そう、近すぎるのである。
 静姫が促した座り場は本当に彼女の真隣。座れば両者の膝と膝がこつりと合わさりそうな程の、ほぼほぼゼロ距離なのだ。
 いや確かに、よく縁側とか近い距離に座るし、二週間前も座ってたし、なんなら昨日も座っていた。静姫がチヒロとの距離感が非常に狭いことに疑問を抱くことはない。
 というか座るどころか、二人は毎晩添い寝状態の生活を続けている。最近は彼女がおはぎを抱きしめて寝ているからチヒロ、おはぎ、静姫というおはぎサンドイッチ形式で寝ているので、正確には添い寝とは言い難いがそれでも手は繋いだままだ。
 しかし、ここは外。そう、あくまでデートなのである。デートとは名ばかりの帰郷だ、と思っていたのに……そんな、本当にお散歩デートみたいな距離感で座る、だと?いいのか?そんなことがあり得ても。
 まあ、簡単に言えば……チヒロは静姫と同様とても狼狽えてしまっていたのである。表情に出てないだけで。

「チヒロくん、えっな、なんかまずかっ」
「なにひとつ」
「えっく、食い気味ぃ?ならいいけど……」

 いかん、このままでは静姫が遠慮してしまうさせるかそんなこと。そんなことを考えながらチヒロはサッと彼女に顔ごと視線を戻し、実に簡潔にものを述べ、タオルの上に腰を落ち着けた。誘ったのは静姫だというのに、むしろチヒロの方が有無を言わさぬ圧が滲み出ていた。

「えーと……本当に良かった?」
「なにひとつ」
「えっ、何一つ、良くな……?」
「え?……あっ何一つ、無問題」
「よかっためっちゃドキドキしちゃった嫌われたかと思った」
「俺がシズを嫌うわけないでしょ」
「きゅん」

 静姫は頬をほんのりと紅潮させながら両の人差し指で角を作り、牛のポーズを取る……懐かしいな、モォ〜〜〜マンッタイ。
 そう、本当に何一つ、問題などないのだ。大人の男が一人、後ろで拝んでいる姿が静姫にバレさえしなければ。

「……風が気持ちいいね」
「うん、涼しくて、音がさらさら流れてて……私、前はこうやって暇を潰してたりしたんだ。捨てられてた新聞を読んだりしてね」

 静姫とチヒロは何をするでもなく川を眺め始めた。確かに体勢に苦を感じることはないし、なんだか気持ちを落ち着かせるにはいいかもしれない。
 彼女はこういう優しい春の匂いがきっと好みなのだろう……冬の寒さは出来ることなら、愛したくなかったろうから。
 爽やかでありながら、どこかしんみりとした雰囲気で光に煌めく川を、夢心地のままに見つめていると。

「……」
「!」

 静姫がチヒロの方へと身を寄せては、彼の肩にぽすりと自身の頭を乗せ始めたのだ。
 これには流石に驚いて、チヒロは硬直した。しかし、そんなチヒロとは相対して彼女の体はどこまでも柔らかで。
 お、お落ち着け、静姫のこの行動は決して恋愛的な何かは何一つ含んではいない。猫が飼い主に甘える瞬間があるだろ、そういうアレだ。落ち着け……!
 チヒロは内心慌てながら、頬をほんの少し染めるだけで……表情自体は眉ひとつも動かさずに、静姫の体をそのまま支えた。
 いや、支えたはきっと少し違うのだろう。先ほど硬直した体勢のまま微動だにできていないだけで、静姫が一方的にチヒロに身を預けただけで……チヒロは彼女を受け入れきれていないのだから。

「本当は、好きだったんだなぁ……」
「……好、き」
 
 想い人の『好き』の言葉を聞けば、普通は胸中を更に荒立てるものだろう。しかし、悲しいかな……チヒロは逆にその言葉で落ち着いてしまった。
 何度も何度も人知れず思い破れた彼だったからこそ、その『好き』に内包されている真意が自分に向けられたものではないと分かってしまったのだ。
 そしてその『好き』には、寂しいという感情はあっても、恋慕のような意味が込められていないことも……あの綺麗な月光が降る夜に溢された、どろりとした蜜のように甘い香りは微塵もしなかったから。
 静姫と出会ってから今まで……無意識のうちに、彼女の『好き』の言葉を、一つ一つ拾い上げてしまう。
 そんなチヒロだからこそ、分かることだった。

「好き、だったの?」
「そう。好きだった」

 今なら、チヒロは静姫を受け入れられる。
 彼女が誰かに甘えることでしか対処しようのない……そんな寂しさに、寄り添える。
 チヒロはゆっくりと静姫の背中全体を包むように腕を回し、彼女のボコボコとした手のひらを優しく握った。

「私はこの街のこと、ずっと昔から……何の愛着もないし興味もないんだろうなって思ってた」

 でも、実際は違った。
 静姫はこの街の些細な変化に逐一反応したし、視線が変わり見える景色が一転したことにも気付いた……ずっと、ずっと暮らしてきていたのだ。
 静姫は古びたアパートの室内で、帰ってきた母の足音に飛び上がるほどの幸福を感じた。
 パン屋の店主に声をかけられ、そこ母に対する好意的な声に、一番大事な尊厳を肯定された気がした。
 不可思議な合言葉だって、母の口から聞いたことだから一言一句全て覚えていた。
 この世で最も尊ぶべき母と一緒に……四十万紗凪と共に暮らしてきたこの街に、何も思うことがないなんて。
 
「そんなこと、あるわけなかった」

 本当は。
 静姫はどんなに空気が汚くても胡乱な人々が闊歩していても。
 大好きな母と共に暮らしてきたこの街が好きだったのだ。大切な、思い出が沢山あったのだ。

「でも、私はこの街を簡単に捨てた」
「……」
「気付いてなかっただけで、愛着も興味も好意もあった生まれ故郷に、お母さんが一人がいなくなった……それだけで全てがどうでもよくなった」

 アパートがあったのだ。自分の生家だった場所だ……そこで人生の半分以上を生きたのだ。

「そんな自分の前の家、取り壊されちゃってた」
「……取り、壊されてたって」

 この街で建物が取り壊されていた跡があった場所はたった一つしかない。

 __『……あれ?なーんだここ、取り壊されちゃったのか』

 日向さんの家に辿り着くほんの少し前に通り過ぎた、あの場所は……まさか。

「あそこ、私が暮らしてたアパートがあったんだよね。本当に、私の帰るとこは六平家以外になくなっちゃったみたい。お母さんと一緒に帰ってたとこ、あそこだけだったから」

 そんなことを平然と言ってのける静姫に強がっている様子は微塵も見られない。そもそも、あの場所に辿り着いた静姫は立ち止まりさえしなかった。まるで、なんてことのない通過点のようにすぐに話題を切り替えていた。

「悲しくなかったんだよね。びっくりするくらい。前の家がなくなろうが、よく助けてもらっていたパン屋がなくなろうが……私の暮らしていた街が、私の知らないうちに姿を変えて行っていることが何一つ悲しくなかった」

 四十万紗凪が起因していたとしても、静姫にとって確かに愛着と興味のあった場所だったはずなのだ。好きな場所だったはずなのだ。それなのにそれらが永久に失われたとしても、きっと彼女の胸を締め付けることはない。
 何故なら、四十万紗凪がいないから。静姫の好きの指針は己の母であって、生きる理由そのものだった。

「……その事実が、凄く寂しくなったの」

 好きだったものが好きじゃなくなる。己にとってとても大切だったものがどうでもよくなる。
 それは静姫にとって心の底から寂しいもので……きっと、悲しいこと。
 もしかしたら、これまでの刀の美しさや六平家での生活は、六平家の二人がいなくなれば同様にどうでもいいものになってしまうのではないだろうか。それだけじゃない、こんなに愛して愛してやまない母のことだって、いつかは静姫にとってどうでもいい存在になってしまうのではないのだろうか。

「そんな自分は、酷く救いようのないくらいに薄情な人間なんじゃないかって……」

 四十万静姫という存在はそういう価値観の人間なのかもしれないと。
 彼女は、自分自身のことが。

「……凄く、怖くなった」

 恐ろしくて恐ろしくて、堪らなくなったのだ。

「シズ、」

 チヒロは彼女の名前を一つこぼして、何も言えないまま口を閉じてしまう。こう言おうとしたのだ……「俺はいなくならないよ」と。
 でもきっと、それはとても弱くて何一つも足しにもならない……彼女の不安を拭うことなんてできない無意味な言葉だ。
 静姫の言い分からすればチヒロがいなくならないのなら、六平家の日常は愛おしいもののままになるということ。でも、それだけでは彼女の心に巣食う疑念は払拭しきれないだろう。
 静姫が恐ろしく思うものは、彼女にとって心の底から好きなものが、大切なものが……その『概念』がそれであるようにと。それらを保つ何かが一つ欠けただけで、彼女にとって価値のないものに一転してしまうのだろうか。そういった危険性を指しているのだから。
 チヒロは、静姫の手を握っている方ではない、もう片方の手でぎゅうと拳を握る。
 悔しい。結局自分は、彼女に寄り添うことしか……それしか、できないのだろうか。彼女の人生に新しい意味を与える父のような存在になれないのか、と。
 
「でも」
「!」
 
 しかし、そのチヒロの悔しさを両断するように、静姫は言葉を続けた。
 
「それでも、私はここに……チヒロくんと一緒に、来れてよかった」

 きっと静姫にとって寄り添ってくれる存在が最も必要だった。
 自分の心の弱いところを、ただ静かに聞いてくれる存在……それがチヒロだ。
 ただただ寄り添ってくれるチヒロがいるお陰で、静姫の抱える不安はほんの少し和らぐのだ。

「私はこの川に来るのが、怖かった。でもチヒロくんが一緒だったから頑張って勇気を出せたんだ」

 四十万紗凪はいなくなった。
 この街に好きなものなんて何一つなくなったのではないかと思った。

「チヒロくん、私はね……安心したよ」
 
 でも、それでも。

「私はこの川が今でも好きみたい。ずっとずっと大好きなままだったよ」

 静姫にとっての……不変の『好き』はまだそこにあったのだ。