私は貴方を隠そうとした
初めて川のことを好きだと思ったのは何がきっかけだったかな。ああ、そうだ。石を拾ったんだ。
石なんて全部灰色で角張ってるものばかりしか見た事なかったのに、川底に沈んでいたその石は灰色なんかじゃなくて藍に近い……そう、お母さんと似た髪色の石だった。形だってまぁるくてツルツルで、ずっと触っていても飽きなかった。
よく見たら、それだけじゃなくて周りにも似た石がたくさんあったんだ。お母さんの目の色に似てる真っ黒の石だってあった。黒すぎて逆に虹色に見えてしまうくらい。それにお母さんの色以外にもあったの。白だって薄緑だって桜色だって。
なんとなく、私はその石をお母さんに見せようと持ち帰ったんだ。私の知っている石じゃないものが沢山あって、なんだか不思議で……そんな不思議なものをお母さんに共有したくなったんだ。
それを見せたら、お母さんは何て言ったと思う?
『シズちゃん、これとっても綺麗ね』
お母さんがそう言った。この世で最も清い心を持っている綺麗なお母さんがその石を綺麗だと頬を赤らめながらそう言ったんだ。
「だから、私はその時から川が大好き。私は綺麗なものが大好きだから、綺麗な人が言う『綺麗』なものが沢山ある川がとっても尊いものに思えたから」
きっと、私があの時に覚えた『不思議』と言う感情は正しくは『好き』だった。私はお母さん以外に好きなものなんてなかったから、すぐには分からなかっただけで。
「でも、今なら分かる。好きなものが沢山増えたから。好きと思える経験を積んでこれた……チヒロくん達に会えたから」
「シズ……」
静姫はそう言ったかと思えば、すくっとその場から立ち上がった。
「シズ?」
「ちょっと待っててね」
静姫は軽い足取りで緩い傾斜をたったと降りていく。浅瀬まで辿り着き、靴と靴下を脱いで濡れない位置にそれらを並べた。そしてパシャパシャと、綺麗な白い足首を濡らしながら川底を見つめている。
「あ!あったよ!ここにも、ここにもある!」
静姫は川底に沈んでいた綺麗な石をひょいひょいといくつか拾ったかと思えばチヒロの元まで戻る。
両の手のひらの上にじゃらじゃらと広げた石達を、彼女は至極満足げにチヒロの前に差し出した。
「ほらほら、綺麗でしょ?藍も黒も白も薄緑も桜色も!チヒロくんの目と……国重さんの目とも同じ赤も!」
「……薄い色は全部石英かな。基本無色透明だけど、何か別のものが混じって色が変わる。色味が強いのは多分チャート」
「おおう、流石刀匠の子。観点からもう違う」
「元々石ってのは全部角張ってるんだよ。川底の石が丸いのは上流から流れてくる時に削れて取れるから。下流とか海あたりになると砂粒サイズくらいになるかな」
「勉強になります」
静姫の採ってきた白い石をコッと手に取ったチヒロはそれを太陽に透かしてみる。石英というのは光を通すのだ。
「これ、研磨してみたらもっと綺麗になるかも」
「……エッ!?」
「工房に研磨剤とかヤスリとか揃ってるから持って帰ってもいいかもね」
「えっえっ、うわっ……!?」
「時間がかかってもいいなら俺が全部綺麗に整えるよ」
「チヒロくん」
「はい」
「私は多分チヒロくんが想定している五十倍くらいは興奮しています」
「興奮しすぎて一周回って落ち着いちゃってる」
「マジでチヒロくんとここに来られて良かった」
「俺もなんかドキドキしてきたな。腕が鳴るよ」
静姫は「わぁー、わぁあー……!」とキラキラした表情で自分が先ほどまで座っていたタオルの上に石を綺麗に並べ出す。頬杖をつきながらうっとりとした表情で石達を見つめている彼女の姿は、刀匠を目指すチヒロとしてはかなり心を浮つかせるものだった。
「もっと採ってきてもいいよ」
「え、本当!?」
「うん。どれだけ時間がかかっても全部俺がもっと綺麗にする」
「うわ、うわーっ!マジかぁ……!チヒロくっまじでぇ……?」
「まじ」
「まじダァ……!」
静姫は興奮冷めやらぬといった風に土手でぴょいぴょい飛び跳ねながらくるくる小躍りしている。なんだこの可愛い生き物は。
改めて彼女が自分より二つも年上だと思うと不思議な感覚だ。チヒロは思わずくすりとはにかんでしまう。
「ねぇっチヒロくん__」
そんなチヒロの視線に気付いたのか、静姫は彼に何かを言おうとした。
「__ッ」
しかし、静姫が上から座り込んだチヒロの姿を見た瞬間……目を見開き息を呑んだ。先ほどまで赤かった彼女の頬は段々と色を失っていき、額から汗をツツと流し始める。
静姫は以前にも……このように座り込んだ男を見降ろし、声をかけた事があった。
__『……さっきから何なんですか』
__『いや……』
キィインと耳鳴りがしたかと思えば、あの時のなんて事のない短い会話が耳の奥で木霊し始めた。
視界がぶれる。目の前に座っているのは硬い黒髪の少年の筈なのに、雪のように白い髪がふわふわと風に揺れめかせた青年がいるような……そんな幻覚を見た。
違う、違う。あいつじゃない。あいつはいない。あいつはもう、私の目の前になんて、私のことなんて……!
「……シズ?」
「あっ……!」
急に青白くなっていく静姫を見て、何やらただならぬものを感じ取ったのだろう。チヒロが心配して静姫の名を呼ぶと、静姫は不意をつかれたかのようにびくりと肩を跳ねさせ、意識をキュゥーッと現実へ引き戻す。
「どうしたの、シズ。顔が真っ青……」
「え、いや、どうもしてないよ」
「……そんなわけ」
「なんもないって」
心配して立ち上がるチヒロに静姫は取り付く島もない様子で、彼の言葉を遮りながら否定した……自分の首の後ろを撫で付け、視線を下げた彼女の表情は、長い髪で覆われてよく見えない。
「……あのねっ」
しかし、静姫はすぐに顔を上げて、川の方へと向き直った。一点の曇りもない明るい表情、に見える。
どこか不自然さを醸し出しながらも、静姫はなんのその。思い出を一つずつ振り返り、その一つを語るごとにひぃ、ふぅ、みぃと数えるように指を立てていく。
「私がこの川を好きになったきっかけは、確かにお母さんの言葉が大きいんだけど、もちろん好きになった理由はそれだけじゃないんだよ。まずはね、ご飯がない時は魚を捕まえてたんだ。何も私だって虫ばっか食べてたわけじゃないよ。魚捕まえてちゃんと血を抜いたり腑を取ったりしてた!棒に刺して炙ってもよし、干してもよし。初めて採れた時はドキドキしちゃったな。流石に火は通さなきゃ色々危ないっていうのは分かってたけど、火の起こし方の知識なんてなかったんだよね。頑張って色々調べたよ。木の棒擦って摩擦熱で火がつくなんてびっくりした。最初のうちは捨てられた虫眼鏡使ってたけど太陽が出てる日しかできなかったから助かったなぁ。そうそう!新聞のコラム?ってやつかな。あれでダンボールの燻製機の作り方も知ったんだよね。あれで食べ物の種類の幅広がったよ〜!やっぱり出来ることが増えていくのは普通に嬉しかったし楽しかった。お母さんがいなくても、私には嬉しいとか楽しいとか……そういうプラスの感情を抱ける機能がちゃんと備わってたんだね」
静姫は川で過ごしていた時のことを無邪気さを感じさせる笑顔で、されども口を挟ませぬようにつらつらと語り出した。
チヒロは分かっていた。話題自体は静姫にとって大切な川での思い出ではあるものの……これは会話ではない。ただただ一方的に情報を垂れ流しているだけ。
静姫の口は今やラジオのスピーカーのようで、側からすれば彼女は考えなしにバッドコミニュケーションを取っているように見えるだろう。
それに関しては概ね正解ではあるものの、静姫はもとより会話が下手なわけでもなければ、決して『考えなし』というわけではない……敢えて、そうしている。
今の彼女はチヒロと会話をしたいわけではなく、先ほどの己の異常を誤魔化そうとしているのだ……チヒロはそれを分かっていた。
そして同時に、それは自分にとって面白くないものだということも。
「それとね、それとね……」
この静姫はチヒロにとってあまり良くない静姫だ。
表情に乏しい彼だったが、それでも親しい人間には分かる程度に口をムッとさせる……そんなチヒロの不機嫌さに気付いているだろうに、静姫はそれを全て無視しながら彼の耳元まで近寄った。
なんて躾けのなっていない猫だろうか。これは飼い主である自分の不徳の致すところだ。
情けない姿を見られてしまえば彼女はますます調子に乗ってしまうだろう。それは絶対に避けたい。
さぁ来るなら来い。耳打ちだなんて、そんなことで流されてやるものか、とチヒロは眉間に皺を寄せながら静姫ラジオに耳を傾けた。
「私はここで水浴びしてたよ……一糸纏わぬ裸体を、陽の下に曝け出して」
おい、卑劣すぎる。
「ッな……!!」
静姫が『それは絶対ライン越えカード』を躊躇なく切ったことにより、チヒロは囁かれた方の耳を抑えザザッと勢いよく退いた。
その顔はトマトのように真っ赤になってしまっている……くそ、完全に不意をつかれた。
「あっはァチヒロくん真っ赤!目も同じだから全面赤一色!」
静姫といえば悪戯が成功したと言わんばかりのしたり顔。
それには流石のチヒロもカチンときてついつい言い返してしまう。
「シズが突然変なこと言うからだろッ」
「でも本当にマッパで水浴びしてたし」
「別に言う必要ないだろそんなこと!」
「あるし!」
「何がどういう理屈で!」
「六平家に来た当初、私めは無知蒙昧の権化であり文明の理解が足らず、ラの状態の姿をチヒロくんの前に晒すという愚行に走り、誠に申し訳ございませんでした。あまりに辛すぎキツすぎ一人だけでこの恥を耐え忍ぶのは無理すぎの鎌足の結果チヒロくんにも恥ずかしくなって頂きました」
「もっと簡潔に」
「さっき黒歴史思い出してめっちゃしんどくなったから道連れにしました、あの時はごめんね」
「許し難い」
確実に今現在この瞬間のことも謝罪すべきな静姫はきゃらきゃらと笑いながらチヒロを揶揄った。手をパシパシ叩いて涙を浮かべ大笑いする彼女に「嗚呼、誤魔化されきってしまったのだな」と自覚する。
今から先ほどのことを問いただそうとしても、きっと静姫は『黒歴史を思い出した』ということにしてのらりくらりとかわすのだろう。
チヒロが落胆しながら苦虫を噛み潰したような顔をしていると。
「……ハァ」
先ほどまで、ただただ二人を静観していた柴がため息を吐き、ざっざという足音と共に静姫の方へと歩を進めた。
「あれっ?居たんですか柴さん」
「……」
「……柴さん?え、何その顔、こわ、え?」
柴に対して通常運転で軽口を叩く静姫。いつも通りなら柴はすぐに「しばくで」と返すはずだが、今の柴は無言のまま彼女を見下すように凄んでいる。
横にいるチヒロもそんな柴を見たことがなかった。あまりの迫力で先ほどまでの静姫のことが頭からすっぽり抜け落ちさせては身構えてしまう。
「柴さん?おーい、柴さ……ン゛ン゛ン゛ーーーッ!!」
様子のおかしい柴に、静姫は困惑しつつもう一度呼びかけると……彼は拳を握り、ごぉおんッ!と彼女の頭にそれを落とした。その勢い、まさに雷の如し。
突如襲いかかった鉄拳の衝撃に悶絶し、静姫は痛みのあまりに目に並々と涙を浮かばせてしまっている……エグかった。今のは確実にエグかった。俺の短い前髪が一瞬風で浮かんだひゅおんッて風きてた。
「いっだいっでぇ、ィイイッ!?これ、こん、こんなッこんなの!女の子の頭に浴びせていい威力じゃねぇってコレぇ!!」
「謝れ」
「……?えっ?ハァッ!?今ガチの困惑しましたよ!あまりにもこちらの台詞すぎますが!?」
「ボケが、俺ちゃう。チヒロくんに謝れ言うとる」
「ッ」
急な暴力に憤慨した静姫だったが、その拳にはちゃんと理由があるらしい。柴は怒ったのではなく、叱るために彼女に拳骨したのだ。それを感じ取った静姫は肩を跳ねさせては、一瞬にしてバツの悪そうな顔をする。
「……謝ったし」
「分からん振りはおもんないで」
「……」
静姫は視線を下げながら、唇を尖らせ両の指を不規則にグネグネもじもじと弄り合わせている……柴の言葉は尤もだと思いつつ、認めたくない。
先程から静姫はずっと不自然だ。別に彼女はチヒロに対して誠心誠意謝ることに躊躇などしないだろう。それなのに、この反応……ひょっとして、静姫にとって何か不都合なことがあるのだろうか。
いじけきって何も言わなくなってしまった彼女の様子を見て、反省を促すには叱るだけでは足りないと判断したのだろう。柴は再度「……ハァ」とため息を吐いた。
「あんなぁシズちゃん……」
こめかみを人差し指でポリポリとかく柴の声に、もう怒気は含まれていない。それは駄々を踏む子に言い聞かせるようなものであった。
「チヒロくんは心配してんねん。ほいで?シズちゃんはその優しさ踏み躙って台無しにして?ヘラヘラわろて満足ですってか」
「……ッ!ちがっ!」
「そんなつもりやないとしても、チヒロくんの気持ち無碍にしとる事実は変わらんで」
「……や、そ、んな、でも」
「話したないことは話さんでもええ。でも大切に思われた瞬間だけは怠けず、無視せず、随時受け止めぇや……チヒロくんのことがほんまに大切ならな。分かったか?」
「……はい」
「せやったら、謝れ」
「はい……」
少しずつ少しずつ諭していく柴にたいして、静姫はみるみるうちにしおらしくなっていった。会うたびに小憎たらしい口を効く彼女の姿は欠片も見られない。
そんな二人の空気から「ああ、柴は本当に彼女にとっての師範なのだな」ということを、チヒロは改めて肌で感じ取った。
「……チヒロくんっ!」
そんなことを考えていると、静姫が急にチヒロの方へと向き直った。力が入っているからか体は少し前のめりで両手で拳を握り、その目はぎゅむっと瞑られている。
「ごめんなさいッ!」
それは全力で必死で腹の底から吐き出される言葉……今度こそ、誠心誠意の謝罪だった。
「……シズ、」
そんな彼女を見て、どうして赦せずにいられるだろう。
甘いと言われようが構わない。チヒロは「いいよ」と、目の前で下げられた頭を撫で、静姫の謝罪を受け入れようとした。
しかし……。
「チヒロくん、聞いてっ!」
「えっ?」
その手は、空を掠める結果に終わる。静姫がいきなり身体を起き上がらせたのだ。
その姿勢はまるで、彼女の旋毛は天から垂らされた糸でピィンと引っ張られているのかと思えるほど、真っ直ぐなものだった。
「……私、誤魔化した!」
静姫の瞳には力強い光が灯されている。その視線でチヒロの目を一直線に貫きながら、彼女はそれをはっきり言葉にした。
「チヒロくんの心配、怠けて無視して受け止めようとしなかった!それで、あのっ……さっきのやつ!私っ……私は、本当はどうもしてないことないし、なんもないなんてことも一切ない!」
静姫は先程、己の犯した罪を吐き出していく……いや、それだけに留まらず、柴の言っていた『話したくないこと』まで詳らかにするつもりのようだ。
何故なら、静姫にとってそれは……世界中の誰に対しても、たとえチヒロに対しても『話したくないこと』でありながら……。
「私はこの川で魚捕まえて火で炙って食べたの美味しかったし、新聞紙読みながら燻製器作れたことが楽しかったし、水浴びした時の水は冷たくて気持ちよかったし……綺麗な石を拾ったときも感動してて、全部全部嬉しかったけど!私はっ私が一番嬉しかったことは……!ここで、この立ってる場所で……」
チヒロにだけは『話しておきたいこと』だったから。
「私のことを……『綺麗』って言ってくれた人がいたッ!」
「……な、」
静姫はずっと忘れられなかった。
憎くて恨めしくて、大切な人との時間も永久に奪われて、底などないほどに深く深い殺意を抱いて、何をどうしても絶対に許すことが出来ないほどの相手なのに……それでも、あの日、あの時、彼から貰ったどこまでも純粋なあの言葉。
__『きみのことがとても綺麗だなって!そう思ったんだ!』
静姫はずっと忘れられなかった。
忘れられるわけがなかった。
「思わず逃げ出して、泣いちゃったくらいに……!その人から逃げずについて行ったら、チヒロくん達に会えなかったかもしれないのに、それなのに……!たったの一回だとしても、ほんの一瞬でも「なんであの時逃げちゃったかな」って後悔しちゃったこともあったっ……!」
静姫が気持ちを吐き出すごとに、その表情をくしゃくしゃに歪ませながら、自分の肩を両腕で掻き抱きいては背を曲げていく。
今にも崩れそうなのに、酷く震えているのに、それでも彼女は奮い立つように両足で自分の身体を支えていた。
その思い出を誰かに明かすことは辛さと苦しさを伴うから。
辛くて苦しいのは嫌だから。
だから、つい楽な方に流れようと誤魔化そうとした。
「本当はっ……本当は、私は、本当に……っ!」
でも、本当は誤魔化したくなかった。
自分の『嬉しい』という大事な感情の核に触れることから逃げ出すような真似なんて……本当はしたくなかった。
「私は……嬉しかったのっ……!」
だから、静姫は全てを言いきるまで折れるわけにはいかない。楽に流されそうになっても、それでも立っていたかったのだ。
「……っ」
チヒロは、羨ましくて悔しくて堪らなくなった……ここまで、彼女に想われる『綺麗』の言葉を言えた、見知らぬその人物を。
自分だって静姫のことを心の底から綺麗だと思い、心を震わせながら彼女への恋心を自覚した……彼はその純粋な気持ちをあの時、静姫に言うべきだったのだ。あの時に言えていれば、彼女はきっとこの川と同じくらいに、あの美しい月夜を愛してくれたのだろう。
しかし、チヒロはその言葉を言い損ねてしまった。そして二年以上の時を経て、やっと言えたと思ったその『綺麗』は……嫉妬や打算などの不純物を織り交ぜた中途半端なものにしかならなかった。
こんなにこんなに彼女を想っているというのに……静姫に慈しんでもらえる、純粋な『綺麗』がチヒロには言えなかったのだ。
「……その人にはもう、会うことはないけど」
静姫は身体の震えを去なすことができたらしく、折り曲げていた身体をゆっくりゆっくりと正し始めた。
先ほどまで込められていた力は見る影もない程に抜かれているらしく、肩を抱いていた腕はだらりと下げられている。
「あっ……でもねっ私は大丈夫なんだ」
静姫は微笑みながらまた視線を川へと移す。チヒロには、はっきりと分かった。
「あの言葉をくれたあの人に、二度と会うことはなくても、チヒロくんとか国重さんとか、薊さんとか……あー、一応柴さんとか?あの人以外にも大切な人は沢山できたしっ!私にはあの時の思い出さえあれば、別にあの人がいなくったって……」
その静姫の横顔は……つい先程に思い出を誤魔化そうとした彼女の不自然な微笑みに酷似している。
「……あー。ごめん、嘘ついちゃった」
そして、彼女も自分が再度楽な方に流れようしていることに気づいたようだ。
たしっと自身の額に手を当てながら、困ったように眉を下げる……口角だけは下げてはいなかったものの、もう誤魔化すこともできないらしい。
「なんか……思ってたより、大丈夫じゃないっぽいや」
静姫はそうぽつりと零したかと思えば……彼女は突然土手を勢いよく駆け降りては川へと突撃した。
「……えっシズ!?」
「は、ちょオイ!待てや静姫!」
静姫は浅瀬に辿り着いてもその速度を緩めることはしなかった。
二人の静止の言葉など一切気にもとめずに、服が濡れようが髪が濡れようが構うことなく、川淵までザバザバと我武者羅に走り続ける。
そして、川の水位が彼女の腰ほど深くなったところで……。
「シズッ!!」
そのまま回転するように身体を傾かせては……静姫は笑いながら、ドボリと水底へと堕ちていった。