捨てたから俺の物にした
静姫の周りにいる存在は全て本物であらなくてはならない。
彼女はただの一瞬でも、妥協をしなかった。四十万静姫と関わる万物が代替であることを許さなかったのだ。
本物でないのなら要らないし、欲しくない。全くもって無価値な存在でしかない。
言うなればある種、究極の我儘だったと言えよう……しかし、それはきっと凍霞涼花もそうだったはずだ。
ただ静姫が、もしくは彼女に似た何かで事足りるのであればここまでの月日を待つことなく、初日で手に入れることのできた紗凪でよかったはずなのだ。
本物が良かったから、諦めきれずに973日もの間……四十万静姫本人を捜し続けた。
『凍霞涼花はもうシズちゃんを絶対に探すことはない』
柴はそう言っていた。あの時、静姫が満面の笑みで新聞を返した後で。
『えらく凍霞家に詳しい伝手に聞いた話や』
その人物が言うには、凍霞家にはルールがあるのだとか。凍霞家が同じ人間を捜索する上で、その期間は必ず『999日』以内までに収めなければならない……捜索を続けたまま千日目を迎えたその時、凍霞家には大いなる災いが降り注ぎ、滅亡するのだとか。
馬鹿げた迷信のように聞こえるし、凍霞家は一度も滅亡したことはない。そもそも、一人の人間を捜索するような機会自体が滅多にない。
しかし、彼らは確信している。絶対に千日目を迎えてはならない……もしも、そのルールを破ることがあれば凍霞家は散り一つ残さず全て奪われ尽くされる。
そのような呪いがかけられているのだと。
『故に奴らは手配書関係の情報……特に期日は正確に記載せにゃならんねん。下手なことしでかしたらどう呪いが発動するか分かったもんやない』
新聞に書かれたことが真実かどうかはさしたる問題ではない……大切なのは『凍霞家』が『四十万静姫』という存在の捜索を『973日目』に『終えた』ために手配書を『撤廃』したという事実。
無論、静姫は凍霞涼花の手に渡ってなどいない。それは柴もその目でしかと確認した。
『……もしもの話や。この手配書が今日の時点で撤廃されず、シズちゃんが999日目になっても見つからんかった場合、凍霞家はその日で手配書を取り下げる。後はよそ者にシズちゃんを見つけてもらうんを待つだけや』
そうすれば凍霞家は捜索などしていない。
全国のアングラ関係者が、過去に凍霞家から手配書を配られていた四十万静姫という女を、勝手に売りに来た……そういう筋道を立てればよい。
そう、四十万静姫を捜している者たちは凍霞家だけではない。
凍霞家から捜索対象から外されたとしても、凍霞家から五千万の価値があると判断された少女は……全国の後ろ暗い組織から身を狙われるに値する。
『凍霞家から身を追われるっちゅーのは、そういうことを意味をするんや。やけど……』
まだ猶予は『26日』残っている。しかし、凍霞涼花はその猶予を待たずに捜索を辞めた……四十万静姫が、見つかったということにして。
果たして、見つかった人間を捜すような愚か者がいるだろうか?
『つまり、今回の手配書撤廃が意味することは……』
凍霞涼花は、四十万静姫を諦めた。そして、代わりに四十万紗凪という四十万静姫によく似た女性で妥協した……花嫁に、とまでに考えた四十万静姫の存在を完全に手放したのだ。
『せやから、シズちゃんはもう自由の身っちゅうわけや。無論、妖刀の在処とその結界を抜けることの出来る存在には変わらんので六平家での監視は継続。まあ、シズちゃんはそうでなくても六平家に張り付くやろうけど、六平家からの外出は可能やで』
何故ならば。
凍霞涼花はもう二度と、四十万静姫を求めることはないのだから。
*
嗚呼、凍霞涼花。お前はなんて哀れな男なのだろう。
私は間違っていなかった。どんなに苦しくても寂しくても……それが死ぬまで続いたとしても、寒さに凍え死にそうになっても私は本物以外を認めずに生きてきた。
だからこそ、天使の模像人形を一目見ただけで、それが変わり果てた愛してやまない母の姿だと分かった。私はこの二年間でも白銀を愛し続けることが出来たのだ。
それに引き換え、お前はどうだ。無様に楽な道へと逃げ出して今ではその様だ……私にはない首の跡にも気付かず、余計な翼まで付け足す始末。
寒いのがそんなに嫌だったか、氷の名前を冠しているくせに。ああ、そうだろうな。誰だって寂しいのは嫌だもんな。安心出来る何かが欲しかったよな。
でもな……。
――『きみのことがとても綺麗だなって!そう思ったんだ!』
あの時、あれほどまでに純粋な『綺麗』を言えたお前は、もう二度と私を思い出せないよ。
偶像であることを理解していながら、お前は……お前の中の私を捻じ曲げた。
これからのお前の人生を予想してやろうか。思い出すことの出来ない綺麗な天使を夢想し続け、不格好に心の穴を埋めようとしては底抜けの喪失感に心を蝕まれ、一生のたうち回り続けるんだ。
嗚呼、嗚呼……なんて爽快だろう痛快だろう!ざまぁみろ、ざまぁみろ!
私の母を奪ったお前が!憎くて恨めしくてたまらないお前が!私が手を下さずとも勝手に自滅して、私が原因で苦しんでいる!
「あっはは!ははっ!はははははははっ!」
嗚呼、嬉しい嬉しい嬉しい!
この世で最も憎い男が、心の底から苦しんでいる!
母がもう本当に私の元に現れないからなんだというのだろう!
そんなのとっくの昔から知っている、覚悟している、悪夢に苛まれ続け地獄で無限に苦しみ続けている!
今更、無限に一を足したところで無限に変わりはないだろうが!
そうだ、今の私は何一つ、悲しくない!
__本当に?
どこからか、声が聞こえた気がした。誰のものかは分からなかったけれど……その声は、とてつもなく聞き覚えのある人のもので。
何を疑う必要があるのだろうか。私が最も憎い男が、私にとっての母や六平家を失って地獄の苦しみを味わっていることで、何を悲しいと思う事があるのだ。
残念なことに、私には他人の心に必要以上に寄り添えるほど高尚な精神は持ち合わせていない。それがあの凍霞涼花なら余計に、だ。
私は、私の嫌いな奴の不幸が何よりも大好きな卑しい人間なのだから。
__本当に、嫌いなのか?
ますます意味が分からない。母をあんな目に遭わせて、私と母とのこれからを奪い尽くされて……嫌いにならないわけがないだろう。
嗚呼、嗚呼、水を差さないでくれ。この幸福を全力を楽しむ私を邪魔しないでくれ。
__この、嘘つきめ。
なんだと。
そういうお前は一体何者なんだ、さっきから知った風な口を聞きやがって。
お前は知らないだろう、私がどれほど苦しんできたのかを。
何度も獄卒となった天使が、最も愛する存在が、何度も何度も私の肉を裂き、骨を砕き、炭になるまで焼き尽くしては、それでも尽きぬ憎しみをぶつけてくる地獄なんて知らないのだろう。
それを、お前は……なんだ、本当に何なんだ!姿を現せ、影にばかり隠れてこの卑怯者め!
__じゃあ、なんでお前は。
私が力の限り叫ぶと、意識の陰から誰かがゆっくりと顔を見せる。
「……なんで、私は」
それは……。
「チヒロくんに、大丈夫だと言えなかったんだ」
他ならない、私自身だった。
「__シズッ!」
*
ざばんッ!と大きな音が鳴り……数秒経ってから、静姫は自分の置かれた状況に気付いた。
あれほどくるくる踊り回っていた自分が河原で膝と手をつきながら座り込んでいて、目の前には同じように全身を濡らしたチヒロが彼女と向き合うように座っていた……彼の手は静姫の腕に。
チヒロが、静姫の腕を掴んで引っ張ったことで、二人とも河原に倒れ込んだのだ。
「……っくり、したぁ、チヒロくん。いきなり腕なんて引っ張ったら危ない……」
「シズ、」
チヒロは、静姫の言葉など何も耳に入っていないようだ。どこか、焦燥に駆り立てられたような声色で彼女にこう言った。
「何がそんなに、悲しいの」
「……え」
一瞬、聞き間違いかとも思った。先程から静姫は狂喜乱舞しては水飛沫をそこら中に跳ね上げさせていただろう。
悲しいことなんて、何一つもない……そんな風に、見えていたはずだろうに。
「何言ってるの、チヒロくん。私は悲しくなんて」
「嘘」
チヒロが即答する。
声が重なった。キィインという耳鳴りと共に、聞き覚えのある……他ならぬ自分の「嘘つきめ」という言葉が頭の中で木霊する。
「な、んで、そんなこと言うの。酷いよ、私はこんなに嬉しい、のに」
「じゃあ、逆になんで」
チヒロは静姫の頬に手を添えながら続く言葉を水面に落とす。はらりと流れ落ちたその雫と共に。
「なんで、そんなに泣いてるの」
「え……?」
落ちたその雫とは、涙だった。
静姫は気付いていなかった……いや、気付こうとしなかった。目の淵から零れ落ちる雨に。
激しく踊り回りながらも、水飛沫を撒き散らしながらも、その涙だけは誤魔化すことは出来なかった。
チヒロの目の前では、どんなに偽ったとしても、本物の感情を見破られてしまう。
「シズ」
「……チ、ヒロく、ん」
「一体何が怖いの。大丈夫じゃないのに……それを、嬉しいに変えなきゃいられないくらいに」
そうじゃなきゃ、耐えられないくらいに。
「何がそんなに、悲しいの」
今、この瞬間。
誰よりも、本物の存在を認めていなかったのは……他ならない静姫自身だった。
「……悪い奴が、いるの」
「うん……」
「本当に、すごく、悪い奴なの……」
静姫は、ポツリポツリと言葉を落としていく。
チヒロは彼女の下から、その全てを受け止めていった。
「そいつは、私からお母さんを奪ったの……私の一番、大切だったものを、ぐちゃぐちゃに壊したの。私が大好きだった物を、全部灰色に見えるくらいに、どうでもいいものに塗り替えていったの。それが寂しくて、堪らなく……悲しいの……」
静姫は耐えきれなくなっていったのか、どんどんとチヒロの胸に倒れていく。覆い被さるようにチヒロと向き合っていた彼女は今や、チヒロなしでは体を支えることができなくなっていた。
「でも、私は……」
そうして静姫は、その言葉を絞り出した……一等、苦しそうに。
「その悪い奴を、どうしたって、嫌いになることができないの……」
そうだ。嘘だ。嘘だったのだ。
自分の心さえ誤魔化そうとしたが、どうしても無理だったのだ。
嫌いになれない。嫌いになれるわけがないのだ。
あいつが……凍霞涼花が、静姫に言った『綺麗』の言葉を忘れても。
静姫はどうしても忘れることができなかった。
あんなに、嬉しかったのだから。
「でも、そいつは、もう二度と私に会う気がないんだって……」
静姫は、こんなにもう一度会いたいというのに。
どんな悲劇に襲われるか、分かったものじゃない。六平家だって静姫にとってかけがえのないものだ。そんな二人を巻き込むわけにはいかない。だからこそ、この自分の欲は捨てなくちゃいけない。忘れなくちゃいけない。
そうやって、自分を押さえ付けていた。
ずっと我慢して、我慢して我慢して我慢して……我慢していたのに。
「私、捨てられちゃった」
他ならない凍霞涼花が、静姫を切り捨てた。
静姫のことなんか、本物でなくとも偶像で十分だと……静姫自身がこんなに切望してやまない凍霞涼花は、彼女の手を放り投げたのだ。
本当は、もっとたくさんお話をしてみたかった。
自分じゃ到底手が出せないような、美味しいお菓子を食べながら。
お母さんと離れて暮らしていることがどんなに辛いか、苛立ちや悲しみをぶつけたり。
逆に涼花の心の薄暗いものを私が包んであげたり。
もっと、もっと。あの、河原での刹那だけじゃなくて、たくさんの時間を過ごしてみたかった。
それを求めていたのは自分だけだった……もう涼花は、静姫を要らないと言った。
「……悲しい、なぁ」
それが、静姫にとって……とてつもなく悲しいことだった。
「でも、だいじょうぶ……」
「……シズ」
「へいき、だいじょうぶ……もう、だいじょうぶ」
静姫は一切大丈夫じゃなさそうな声色で、苦しみながら「大丈夫」という言葉を繰り返し始めた。
「ちゃんとだいじょうぶになる……わるいやつのことは、きらいになる、から……」
ああ、駄目だ。
今だけは、一切の嘘も許されない……許しては、いけない。
「シズ」
「っ!」
チヒロは今にも崩れそうな静姫の身体を抱きしめた。顔を肩に埋めさせながら、何があっても崩れることのないように背に手を回す……そして、とてもても優しい言葉で彼女を包み込んだ。
「自分一人で『大丈夫』になろうとしなくていいんだよ」
「!」
「大丈夫じゃなくても、それが怖くても悲しくても『大丈夫』だよ。無理に、嫌いになったりしなくていいんだよ」
「……なん、で」
静姫は震える声で一つ一つ、溢していく。
「悪いやつなのに……」
「うん、そうだね……」
「大好きなお母さんに、酷いことをしたすごく悪いやつなのに」
「そうだね。許しちゃいけない、極悪人だ」
「私は、私だけはあいつのこと嫌いでいなくちゃいけないのに」
「うん、うん……」
「それなのに、私は、」
静姫はチヒロの背に手を伸ばしていた。
力強く、激しく……彼の背にしがみつきながら、彼女は言葉を最後まで吐き出した。
「私は、あいつのこと、嫌いにならないで、いいの……?」
彼女の、心の中の……大丈夫じゃないものを。
「いいよ」
それをチヒロは優しく肯定する。
静姫には何が何だか分からなかった。
チヒロは刀匠を目指す男だ。弱きを助け強きを挫く、そのための力を作り上げる男になるのだ。
それなのに、悪党を嫌いになれない静姫をどうして肯定できるのか……全く持って理解が出来なかった。
「なん、で……?」
「だって……」
チヒロは、静姫の頭をぽふぽふと撫でながら、こう続ける。
「シズは俺のものだから」
静姫はチヒロのものだ。
だからこそ、それはチヒロの特権にもなり得るのだ。
「だから、シズの出来ないことは代わりに全部俺がやる」
最後まで彼女の手を離さず、真に彼女を自分のものにしたのはチヒロだ。決して凍霞涼花ではない……凍霞涼花には許されないものだ。
「俺は嫌いだよ。大っ嫌い……シズをこんなに苦しめておきながら、それでもシズに嫌われない、すっごく悪い奴のこと。会ったことなんてないから、本当は嫌いになんてなっちゃいけないのかもしれない。だけど、ずるくてずるくて仕方ない……嫉妬で狂ってしまいそうなくらい」
静姫の丸ごと全てがチヒロのものだ。出来ることも出来ないことも……彼女が偽ることも本物の感情も。
大丈夫じゃないことも、悲しいことも。全て全て、チヒロが背負うのだ。
それこそが……。
「だからさ、シズが背負っている……そいつのことを嫌いになる権利と義務を、俺にちょうだい」
四十万静姫という存在を手にした者の特権だった。
「……なに、それー」
「だって嫌いだもん」
「だもんって、らしくな」
「いいだろ別に」
「いいけどさぁ」
気づけば静姫の肩の力はすっかり抜けており、くすくすと笑い始めては顔を上げていた。
ああ、分かる。ずっとずっと、チヒロはたくさん話をしてきたから。
おかしくて仕方ないって、堪らなく笑ってしまう……静姫の本物の笑顔だ。
「ねえ、チヒロくん……」
「なぁに」
「……本当に、いいの?」
静姫は少しばかり、不安そうに眉を下げている。
それでもチヒロの目から視線を外すことなく……そう、問うた。
「私のことを欲しがったチヒロくんは……最後まで私のことを放したり、捨てたりしない?」
「天地がひっくり返っても」
それは愚問だった。そんなこと、誰に頼まれたってするわけない。
「……私の出来ないことを全部、チヒロくんに任せてもいいの?」
静姫の言葉にチヒロは薄く微笑みながら、自分の額と彼女の額を合わせてこう答えた。
「お任せあれ」
眼前の静姫はその言葉に、顔を涙でくしゃくしゃにしながら、それでも至上の幸福だとでもいうような表情になる。悲しいけど、大丈夫じゃないけど……どこまでも嬉しそうな静姫の笑顔だ。
「シズ」
嗚呼、今ならきっと言える。どこまでも真っ直ぐに純粋で澱みの一切もない、その言葉を。
「シズはすごく、綺麗だよ」
「__ッ!」
その『綺麗』に静姫が息を呑む音を、チヒロは確かに聞いた。
今まで何度か言ってきたその言葉だったが、今までとは明確に違うと感じた。
届いた、という実感が……確かに。
「知ってる、よ……」
チヒロはやっと言えたのだ。彼女に想われる『綺麗』の言葉を。
「……嬉しいっ!」
その静姫の笑顔が、それを痛いほどに物語っていたから。