『伊澄沙華』という女は
静姫が六平家から姿を消してから一週間が経った。
それは突然のことだった。あの河原で静姫もチヒロも柴も、三人全員びしょびしょに濡れたことで、帰りは柴の妖術で六平家へと帰還したのだ。
風邪をひかないようにとそれぞれが湯浴みで身体を温めてから、静姫は柴にこう言った。
『明日ですよね、お話を伺った剣豪さんに会いに行くの』
柴は軽く「そうやで、羊羹丸準備しとき」と返したが、チヒロにとってそれは初耳のことだった。
静姫は妖術師としての身体能力の基礎を十分に身につけた。柴はもう次のステップに進ませても良いと判断し、彼女はようやく刀を握っての剣術の修行に励むのだそう。
チヒロはどうしてもっと事前に言ってくれなかったのか、と不満を唱えたが……そもそも、六平家に来てからの静姫にとっての外出は、その日の一時帰郷が初めてのこと。
彼女の言い分としては「引きこもりがいきなりお外に出て『下界、怖……』ってならないかちょっと心配だったんだよー」だったのだとか。
それを聞いたチヒロは、静姫はそんなたまか?と疑問を覚えたが、河原での彼女の不安定さを見た後では口を噤んでしまう。
静姫はおそらく、その場で言える限りの真実を言ったのだろう。チヒロに対して、いきなり「私が刀を握る上で、故郷への気持ちの整理をしっかりつけられるか確かめたかった」なんて言ったら、彼の心を暗くしてしまうだろうから……それを読み取れるくらいにはチヒロは彼女のそばに居続けてきた。
しかし、翌日になってから静姫が帰ってくることはなかった。
おかしい、とは思ったのだ。彼女が外出する際の手荷物は必要最小限のもので、明らかにその日のうちに帰ってきそうな格好だったのだ。だが、晩になっても静姫が帰宅する気配が一切なかった。
父が言うには「伊澄は気前がいいから『泊まっていけ』って話になったんだろうなぁ」とかなんとかだったが……それがもう一週間だ。
チヒロは気付いていた。時折、父が携帯を開いてはほんの少し苦い顔をするのを……それがきっと、静姫に関する内容のメールなのだろうと。
そんな父の表情を見て、次第にじっとりとした焦りがチヒロの胸中を掻き立てていった。
そして、ついに聞いてしまったのだ。
父の携帯に届いた、録音メール……そこから聞こえてきた静姫の声を。
『やだっ……嫌、やめてっ寄らないでぇッ!』
必死の懇願で、悲痛に歪む声を。
*
「俺が、俺がアカンかったんやッ……!」
「柴……」
「俺の見解が甘かった、見誤ったんやッ……!」
一週間ぶりに聞いた、静姫の声。それは、悲鳴とも取れるものだった。そのただならなさに、チヒロは父に対して「柴さんを呼んで!」と柴の緊急招集を叫ぶ。
国重も国重で「うんっ!そうだなッ!」と大変お元気よく返答したものだ……あの六平国重が汗をかくレベルである。
しかも、その翌日には柴だけでなく、薊まで駆けつけてきた。それだけで尋常じゃない何かがそこにはあると察せるのは容易だった。
「あいつが……!あの異常者が、このタイミングでシズちゃんを呼ぶこと!その真意を俺は理解出来ひんかったッ……!」
「狙っていた、ということか。この日が来るのを……二年前にこの手配書を見た瞬間から……!」
テーブルに広げられたのは、静姫の手配書。それは大人達はもちろん、静姫も知っていたもの……だが、チヒロにとっては初めて目にするものだった。
しかし、漸く合点がいった。何故、静姫も大人達も彼女の外出を避けていたのか。そして、あの帰郷の際に静姫が言っていた……『悪い奴』の正体がどういう存在なのかも。
自分だけ知らされていなかったのは、正直なところ苦言を呈したいものではあるが……チヒロが彼女の立場だったらと思うと、言わずに呑み込む選択をしただろう。納得するしかない。
しかし、これはごく最近とはいえ最早撤廃されたものだと聞いた。それが何故、今になって……。
いや、今になって、だからこそなのかもしれない。
「シズちゃんは今や奴の着せ替え人形!あいつ、はなっからあの子をお気に入りに加えるつもりやったんや……!」
「まさか、そんな、そのために、これ程までの準備をしていたということなのか……?」
息を潜め、虎視眈々と静姫に狙いを定めていた。
静姫が最大の敵からマークから外れ、油断しきっていたところを横から掠め取るために……。
「……一体、誰なんですか」
本来ならば、この場にチヒロを交えるのは適切ではないのかもしれない。彼はまだ十一歳の子供だ。
そんなチヒロに聞かせられるような内容ではないのだ。しかし……。
「俺から、シズを取ったこの人は一体誰なんですかッ……!」
静姫は、チヒロのものだ。
そんな彼を抜きに話をするのは、どうしても出来なかった……。
「この人、は……」
「……」
その者の姿は、柴の携帯に届いていた。
虚な瞳をした静姫を自身の腕にの中に閉じ込め、見せつけるかのような底意地の悪い笑顔でこちらを見ているその画像メール。
その件名に書かれている言葉、それは……。
『件名:ウェーイ!六平の倅、見てるぅー?
本文:今からあなたのシズを!ドレスアップしちゃいまーす!』
「いや本当にこの人誰なんですか」
「日本有数大剣豪の一人、伊澄沙華さんです……」
「この、この邪悪なセーラームーンと、邪悪なキュアドリームを足して二で割ったような人が……?」
「えっチヒロくん、セーラームーンとプリキュアをご存知で……?」
「シズが見てるのを横から……」
ほんの一週間前まで「チヒロくん、やはり闘う女の子は最高だね」とか何とか言いながら、やたらと戦闘に向かなそうな華美な衣装でモンスターと闘う女児向けアニメを見ていた静姫がもはや懐かしい。
チヒロはテレビの画面よりも静姫の横顔を見ながら「そうだね」だなんて返していた気がする。いつも通り綺麗な顔だった、可愛かった。
そんな、記憶の中の健康的で健全な可愛い可愛い想い人の笑顔を反芻しながら、もう一度ディスプレイの中の静姫を見返してみる。
その女性は見たところ、二十代後半のような見た目であるが……斉廷戦争の時代では既に成人をしていることが柴たちの話から窺えたので、実際はもっと年齢は上なのであろう。顔立ちも整っておりその美貌ではいろんな男達を誑かせるのだろうな、ということは想像に難しくない。
そして彼女の髪はとても長く、お団子ツインテールで結われていた。その髪色は目に悪そうなドのつくピンク色で……女児向けアニメに疎い柴や薊は後から気になって調べてみたのだが、なんとも言い得て妙な表現だと納得してしまうような奇抜な髪型だった。
しかも、やたらと無駄に豊満な身体つきをしているようで、胸の中へと掻き抱いている静姫の顔が殆ど見えない。息ができていないのではなかろうか、この虚な瞳はまさか酸欠状態だからなのではあるまいな。
その上でドヤ顔ツーショットに……チヒロ個人に煽りメールと来た。うん、とても善良な人には見えない。
「一応、聞きますけど柴さん」
「ハイ……」
「この人はシズの言っていた、嫌いになれない悪い奴ではないですよね?」
「ハイ、別人です……」
「別に、俺はこの人と張り合っていたわけではないですよね?」
「ハイ、別人の、すごく悪い奴です」
「なんで引き合わせちゃったんですか、そんな悪い奴を」
よく見ると、背景にはとんでもない数の衣装が盛り沢山であった。カジュアル、ガーリー、パンク、ゴシック、ロリータ、剰え民族衣装のようなものまで。
なんだその数、まさかそれ、全部……静姫に着せるつもりなのか。一体いつから、どのようにして用意したというのだ。
チヒロは深く、深い溜め息を吐きながら眉間を揉みつつ、口を開いた。
「柴さん」
「ナンデショウカ……」
「まだ、ありますよね」
「……はい?」
柴にはチヒロが何を言っているのか分からない。
しかし、チヒロには確信があった。この伊澄沙華から送られた、静姫の現状を知ることのできるメールがこれだけではないことを。
「まだ、俺に見せてないものありますよね」
「えっ」
何故なら、今回の緊急招集のきっかけは画像メールではなく、録音メールだったのだから。
「この画像以外に、煽り録音とか送られてきてますよね」
「……い、いやぁ、それはその」
「出してください。今、ここで」
「チ、チヒロくん、あのですね」
「俺の、シズを、この悪い奴に引き合わせた、柴さん。今すぐに出してください」
「ハイ……」
今この場での権力ヒエラルキーは完全に六平千鉱がトップであり、底辺に位置するのは柴登吾。拒否権はなかった。
*
『無理無理無理無理ィッ!私めのような貧乏人はダース売りされているTシャツとかで十分ですから!たまに奮発して二千円相当の甚平とかで十分幸せですからッ!』
『あなた、柴から聞いてた話じゃ自己肯定感爆高って聞いてたわよ、私のように。貧乏人なんて卑下することないじゃない』
『貧乏人は普通に事実なんで!ジブン払えないっす!汚しても弁償できないっす!』
『汚しても弁償しなくてもいいし払わなくてもいいのよ、あげるから』
『受け取れるわけないでしょ!?その服ッ!ウン万円するって聞きましたが!?』
『んなわけないじゃない。ウン十万よ』
『イィヤァアア無理ぃいいいッ!やだっ……嫌、やめてっ寄らないでぇッ!ちょッ!オレのそばに近寄るなああーッ!!』
ああ、そういう感じか。
チヒロが一瞬だけ聞いた静姫の悲鳴はガチの怯えではあったものの、それは二年以上前まで極貧生活を送ってきた静姫なりの価値観の齟齬からくるものだったらしい。静姫的には大問題ではあるかもしれないが、別にそこまでシリアスな事情ではなかった。
しかし、それは言い換えれば伊澄沙華がチヒロをおちょくる為に、敢えて誤解を受けるような静姫の悲鳴だけを切り取って此方に送り付けた、ということになる。引き続き警戒を怠ってはいけない。
そんなことを考えながら、柴の携帯に繋いだイヤホンを耳に挿しては彼のメールフォルダに保存されている、伊澄沙華から届いたここ一週間分のメッセージを確認を続ける。
その携帯の持ち主である柴はチヒロとは別の部屋で顔を覆いながらさめざめと泣いていた……今この場での柴の人権はない。
「アカン、チヒロくんバチギレや……」
「チヒロはシズのこと大っ好きだもんな」
「『一人で集中して確認したいので少し時間をもらいます』って言いながら自室に篭ったな」
「チヒロの集中ってまじ凄いからしばらく出てこないぞぉ」
「お父さんからのお墨付きぃ!」
柴が静姫に引き合わせた伊澄沙華という人物。
彼女は六平国重が信頼を置き、妖刀を渡した妖刀契約者達にも引けを取らぬ剣豪の一人である。
しかし、剣豪でありながら不殺を掲げ、刀を握ってもこれまでの人生で誰一人の命を奪ったことのない。それ故に、先の斉廷戦争にも参加をしなかった。
これだけで、沙華の強さが窺える。刀を握る者からは剣豪と謳われるほどに名の知れた人物……腕は確かだということは分かっている。その上で人を殺さず刀を振れるというのだ。剣術に通じた者なら分かるが、殺しよりも不殺の方が遥かに極みの位置に近い。
そして沙華は、日本全土が侵略されてもおかしくない斉廷戦争に一切関わろうとしなかった。母国滅亡の危機など、自分を曲げることの理由にさえなりはしない。
それに、もし本当に母国が滅びその矛先が自分に向かったとしても、彼女は自分の剣術のみで生き残れるという確信があった。
天上天下唯我独尊、傍若無人の頂にいるような女だが、それに見合った力を有する剣豪なのだ。
ただし……。
「あいつは、性癖がなぁ……」
「他はともかく、性癖が……」
「やばいもんな!」
彼女はとんでもない真性のサディスティック性的倒錯者だった。
剣術の太刀筋や流派それぞれの信念に美しさやロマンを理解する精神自体は持ち合わせてはいるものの……それはそうとして伊澄沙華は自分の性癖に正直なまま刀を振っている変態女なのである。ちなみに、沙華の愛刀は全て逆刃刀であった。さてはこいつ、緋村剣心が好きだな?
しかし、ジャンプ漫画主人公のような高尚な精神など微塵も掲げていない伊澄沙華という人間は……その刃の潰れている部分で人を滅多打ちにし、そこに浮かび上がった真っ赤なミミズ腫れに尋常ではなく興奮するという性癖の持ち主なのだ。おそらく、不殺を貫いているのは『流血じゃ勿体無いから』みたいな理由が大きいだろう。何か悲しい過去があってとかではないはず。
しかも、伊澄沙華の妖術は治癒能力に特化しているため、滅多打ちにした後にしばらく愛でては治し、もう一度遊べるドン!フルボッコだドン!を繰り返す。
なんでこいつ、捕まっていないんだろう……彼女の言い分としては「全員合意の上だからいいのよ」らしい。
それに、たとえ彼女をひっ捕らえようと柴や薊が手を組んでも「正当防衛解禁…ってコト!?」と恍惚とした表情で言われながら過剰防衛の末に返り討ちに遭いかねない。ヤツは強すぎる、まじで。
ちなみに、前に沙華が聞いてもいないのに言っていたのは「好みのタイプは前提として血縁以外の健康体!そこからさらに選ぶなら目とか髪に赤か緑が入ってたりお肌が白い人間!」とのこと。多分、血縁者以外の健康な人間であるなら老若男女問わずイケる口だ。エグい。
「何度も聞くが、なんで沙華さんにほいほいシズちゃんを任せたんだ柴……!もっと警戒しろ!シズちゃんの肌は真っ白だぞ!?」
「やって、まだチヒロくんが赤ん坊の頃!六平に離乳食の作り方を教えにきてた時にィ……!」
伊澄沙華は子が生まれてすぐに夫に先立たれた故にシングルマザー歴が長い。
そのため、チヒロを男一人で育てる国重に、育児についてレクチャーしにきたこともあるのだ。
六平国重及びチヒロの瞳は赤い。そんな六平家に沙華が向かっていると耳にした柴はそれはそれは青い顔で駆け付け「お前どさくさに紛れて何するつもりや!」と詰め寄ったが、その際の沙華の答えはこうだ。
『は?流石に妻子持ちやガキにまで手を出そうなんざ思わないわよ』
「まさかその理由が倫理的な話ではなく、妻子持ちに手を出したら慰謝料が発生するからとか、ガキ……つまりは十三歳未満に手を出したらわいせつ罪に抵触しかねんからっていう百パーセント法的根拠とは思わんやろ!」
「法律だけはきっちり守りやがってあの女!」
柴は沙華に静姫の剣術をみてもらえないか、という打診をしに行ったとき例の手配書を見せていたのだ。その時の彼女の目は確かにキラッと光っていたが「まだ十歳と数ヶ月な上に、刀も握ったことのないような小娘の面倒なんかみれないわ。きっちり基礎を作って十三歳頃に連れてきなさい」と言っていた。
その時の柴は、沙華は『999日』のことについて言っているのだと思っていた。当時の十歳女児が『999日』の期限を迎えるおおよそ二年八ヶ月の時間を無事に過ごせば十三歳になっているだろう。
だからこそ『999日』ぴったりではないものの、手配書が撤廃された今なら沙華に会わせても良いと捉えて静姫を彼女に紹介したのだ。
しかし、そんな柴の考えとは裏腹に凍霞家の手配書とは全く関係ない……刑法第176条的な事だったらしい。
ちなみに刑法第176条は2023年7月13日に十三歳未満から十六歳未満に年齢が引き上げられたが、ガラパゴス携帯全盛期の現在では遠い未来の話である。
もちろん、沙華は世間一般的な性的行為で静姫に手を出すつもりは一切ないが、彼女が刀を振るのは性的欲求の解消も兼ねているので沙華の刀をその身で受け止めるというのは性的行為と同義なのである。もうやだこの変態剣士。
「いや、でも同意の上じゃないとやっぱり法律に抵触するだろ。というか、思いっきり鷲掴みだろ」
「シズちゃんの目的は鍛錬や。あのババアの性欲発散に都合良ぉ扱われてると気付いてても同意するに決まってるやろ。六平家の護り手を目指すあの子が、あの絶技を見たりなんてしたら……身体ではなく刀で受け止められるようになれるまで帰って来ぇへん可能性も……」
「卑劣すぎるだろあのババア……!」
「シズ、大丈夫かなぁ」
今頃、静姫がどんな目に遭っているのか。保護者としては心配で仕方ないし『法律には触れていませんけど何か?シズちゃんは刀の打ち合いに対して快諾しておりますが何か?』という伊澄沙華の副音声が聞こえる状況が非常に腹立たしい。
「でもなぁ……」
「しゃあないやんか……」
「……背に腹は代えられないけどさぁ」
それでも、そんな人格破綻性的倒錯者が四十万静姫という存在を任せるには一番適任でもあるのは皆分かっている。
彼女は既に一度、凍霞家に目を付けられた。手配書が撤廃されもう探されることはないとは言え、おいそれと外の人間に簡単に任せるわけにはいかない……だからこその伊澄沙華なのだ。
何故ならば、凍霞関連の被害を受けた者にとって、この世で最も安全な場所とは。
四十万静姫と同じく凍霞家を心底嫌い、
四十万静姫と同じく十歳の頃に、
四十万静姫と同じくに身を狙われ、
四十万静姫と違って己の力一つで凍霞家を退け続けた存在。
最初の『999日』を迎えた、伊澄沙華という女の手の届く範囲なのだから。