彼女の自罰を穢す事勿れ


 沙華がチヒロに放った未来の話。
 それは、もしもではなく『必ず』起こる約束された未来の話。それは、チヒロが静姫を近いうちに捨てる、というもので。
 チヒロと静姫の日常を知る者は、誰しも「そんなことありえるわけがないだろう」と思うだろう。
 勿論、チヒロだってそうだ。確かに、静姫のことを最初に欲しがったのは自分ではない……それでも、静姫のことを欲した者たちの中で一番最初に彼女の手を取ったのはチヒロ自身だ。
 こんなに欲してやまなくて、先手を打ってまで自分の元に置いた静姫のことをどうして手放すというのだろう。
 しかし……。

――『私、捨てられちゃった』

 一週間前。そうたった、一週間前の話。静姫が彼女の中にあった寂しさを吐露した。自分は捨てられた、と……彼女がそう言ったのだ。
 チヒロは後からその人物の名前を聞いた。元よりチヒロ自身の生い立ち自体が世間一般的に明るいものではなかったし、静姫と共にいる以上いずれは知ることになるろうと大人達も理解していたからか、すんなりと教えてくれた……その男は『凍霞涼花』というらしい。
 静姫の母を彼女から取り上げ、静姫の一番大切な尊厳を粉々に破壊しておきながら、それでも彼女に思われているその男がチヒロは大っ嫌いだ。もちろん、静姫自身に対する仕打ちが理由ではあるが、そこには嫉妬だってふんだんに込められているだろう。
 凍霞涼花がもう静姫を探すことはない。彼女は解放されたのだ。それはきっと喜ばしいことであるはずだ……静姫がそれを『喜ばしいことであらなくてはならない』という強迫観念に駆られてしまうほどに。
 それでも、静姫は解放されたことを、凍霞涼花の手から離れたことを「寂しい」と言った……チヒロが静姫の本音をその喉から引き摺り出させた。
 元から静姫は凍霞涼花の物でもないのに。彼は静姫に手を伸ばしているだけの愚者のくせに。静姫にそう思われるほどに、長い時間と強い念を持って彼女を欲しがっていたのだ。

「……沙華さん、凍霞涼花という男を知っていますか」
「なぁんだ、教わっていたのね。なら話が早くて助かるわ」
 
 しかし、そんな彼は静姫を諦めた……あり得るだろうか、そんな馬鹿な話が。
 ここまで美しい静姫を、そんなにも欲しがっておきながら、ただ見つからないからといって諦めてしまえるはずがない……少なくとも、チヒロにはそんなことは考えられない。
 でも実際に、凍霞涼花は静姫を諦めた。そこには、もしかすると彼の心が折られたということだけではない、もっと重要な何かがあったのではないだろうか。

「まともよ、彼は」

 チヒロが聞くよりも先に沙華がそう言った。
 
「え……」
「意外に思うかしら。でもね、まともなのよ。凍霞涼花は……価値観はともあれシズを想う気持ちの方向性は『まとも』と言う他ないわ」

 凍霞涼花という人間はチヒロが聞き齧っただけでも十分にまともではないと分かる。
 大人達はチヒロに凍霞涼花の全ての悪行を明かしたわけではないが、少なくとも金で人間を……静姫を買い取ることを容易に選択肢に入れることのできる人物だ。まともなわけがない。

「まともだったなら、なんでばら撒いたんですか。あんなものを」
「手配書のこと?金を出すくらいしか思い付かないからでしょうね、人との接し方を。そういう家だから。本当、くぅだらない……」

 沙華は嫌気が差したような表情で手をひらひらと振った。彼女は先ほどからやけに『凍霞家』について詳しそうな物言いをする。

「六平千鉱、あなたシズのこと好きでしょう」
「はい」
「ヒョッ」「ひゅっ」
「動揺がキモいわ芋茄子コンビ、茹でるわよ」
「きゃ、きゃあ……」
「羅幻はホントにきゃっわゆいわねぇえ〜!」
「おい扱いが全然ちゃうやろ」
「は?当たり前よ。芋茄子は三十路の他人、羅幻はティーンの孫。同様の扱いを受けられると思っていたらいつかどこかで事故るわよ。おっさんども」
「やめてくださいおっさんは死んでしまいます」
「そっち系の生々しくも惨い話はお控え下さい」

 話の方向が突然恋バナに舵を切った為に沙華とチヒロ以外の三人は頬を赤く染めて三者三様の反応を表した。
 あわあわと顔を覆う羅幻はともかくとして三十路越えの二人がその反応は年齢に見合わな過ぎた……まあ、それは当事者なのに一切動じることのないチヒロにも言えることではあるが。
 もうこの際、十代前半の男女に推しカプがどうとかいう感情は封印した方が身のためである。うるさい、出来たらとっくにやっとるわい。
 そんな地味に精神が抉れたおっさん二名はさておきながら……

「凍霞涼花もね、シズのこと好きみたいなのよ。鑑賞用なんかじゃなくて、あなたと同じ気持ちで」
「そうですか」
「あら、不服そう」
「まあ」

 それはそうだ。チヒロには自分の静姫への恋心は誰にも負けない自信がある。それを他者と同じと言われても良い気はしない。
 しかし、沙華の言葉を否定するつもりもない。きっと、その他者も自分と似たような考えだろうから……「俺は他者と違う」とその他者と口を揃えて同じことを言うのはあまりに滑稽だろう。

「では、ここでクエスチョン」
「……?」
「まともな人間は、大好きな相手に対して一番に何を思うでしょうか?シンプルに考えてみて頂戴」
「何、を……」

 チヒロは沙華から出された問題に虚を突かれてしまった。
 静姫に対して思うことなんて、数えきれないほどある。その中から一番を選ぶことは至難の業だ。
 しかし、沙華はシンプルに考えろ、と言った。小難しいことは何も考えずに、自分の望むことを。

「俺のこと、好きになってほし……いや、」
 
 正直に言うと、静姫には自分のことを好きになって欲しいのは本当である。
 でも、それは一番ではない気がしたのだ。

「……幸せになって、欲しいです」

 そうだ、幸せになって欲しい。それが一番だった。
 大好きな母から引き離されて、慈しみを覚えた相手に諦められて……初恋でさえ実らせようとすると、悲しいことになると言い捨ててしまうような静姫に。

「俺はシズに幸せになって欲しいんです。俺のこと、好きになって欲しいって思うけど、でも、それ以上に……もう苦しいことも悲しいこともシズに降りかからないで欲しい。それが一番です」
「素晴らしい答えね」

 沙華は手を合わせてニコニコと微笑みながら顔を傾けた。他の三人も目の縁にひっそりと涙を浮かべながら腕を組み、うんうんと頷いている。

「そんなだからダメなのよ」
「なっ!」
『えぇえぇええ!?』

 しかし、沙華はそのまま口以外を動かさずに正反対の言葉を発した……何?二重人格?

「婆ちゃん!素晴らしいって言った後にダメって何!?俺分かんないよ!教えて!」
「そうだね羅幻!」
「言ったれ羅幻!」
「羅幻、世の中の可不可は常に表裏一体であるものなのよ」
「そっか!……なぁ?」
「いいぞ羅幻!」
「人は疑いを持ち始めてから次第に大人に成長するもんや!」
「疑心しか持ち合わせない薄汚い芋茄子はすっこんでなさい」

 五歳児の教育方針について話し合っている場合か。先程から伊澄家のコントにペースを乱されまくりである。
 これは自分が取りなすしかないと、チヒロは腕を組みながら口を開いた……なんだかポージングが静姫に似ている。

「お孫さんが疑問に思ってらっしゃるんですから、詳しく説明されては如何ですか」
「……あらぁ、自分が一番気になってるくせにうちの孫をダシに使うなんていい度胸じゃない」
「なんのことか」

 スーンとした表情のまま、孫に甘い婆様へと必中攻撃を仕掛けるチヒロのなんと強かなことか。恐ろしくも素晴らしい手腕である……大人になるってこういうことか。まだ十代前半のはずだが。

「じゃあ、まず……同じくまともな凍霞涼花がどうしてシズの手配書を取り下げたかって話だけれどね」
「まとも、まあ、はい」

 そもそも、凍霞涼花がまともだ、という前提から異議を唱えたくて仕方がないが……話が進まないのでチヒロは黙って聞き入れることにした。

「それはシズの幸せを願っているからよ」
「し、あわせ……?」
「そう。ちなみにあの娘の母親の紗凪もね」

 沙華は微笑みを消した。ゆっくり瞼を閉じて再度開いた時……そこにあったのは愚者を見下すような呆れた表情だった。
 四十万静姫は確かに、凍霞涼花と四十万紗凪の二人に慈愛を覚えていた。
 凍霞涼花が静姫の捜索を打ち止め、彼女を見つかったということを世間の事実として広めたのは、ただ諦めただけではない……凍霞家だけではない裏社会全体に彼女が追われる可能性を消すためだ。
 自分の元に来なくたっていい、自分の手元に来なくても誰に追われることも狙われることもなく幸せに暮らしてほしい。
 四十万紗凪が静姫に黙って凍霞の元へ行った理由は、静姫が裏社会の世界に足を踏み入れ、母親である自分のために手を汚すような真似を欲しくなかったから。
 誰の幸せも壊さず、綺麗な手を失うことなく、満足な暮らしをさせてあげられなかった不甲斐ない自分から解放されて何処かで幸せになって欲しかったから。

「誰に頼まれたわけでもないくせに、勝手なことよね」
 
 その結果どうだろうか。静姫は慈愛を覚えた相手二人との繋がりを失った。
 たとえ凍霞涼花が手配書を取り下げなくたって静姫は彼の元に行かなかっただろう。彼女にとって六平家は大切な存在だ……彼らを危険に晒すなんて絶対にしたくない。
 だからこそ、あの手配書だけが静姫にとって涼花が彼女の繋がりを求めているただ一つの証明だった。
 四十万紗凪が静姫と共に二人で街から逃げ出していたら、それまでの生活よりさらに困窮を極めたかもしれない。凍霞の息がかかった店だったとはいえ唯一の食い扶持を稼ぐ店からの収入はなくなり、静姫は食料などの施しを受けることもなくなったに違いない……いざという時がきたら、静姫は躊躇うことなく犯罪に手を染めただろう。
 それでも、静姫は彼女にとって最大の尊厳である母親を失うことだけは絶対になかった。

「繋がりを失くしたシズは途方もない悲しみにくれたわ。そして、あの二人はシズがそんな悲しみを覚えてることさえ知り得ることはない。彼らの中にだけ存在する四十万静姫の偶像の幸せを呑気に祈って慈しんで一方的にさようなら、で終わり」
 
 その相手がどのような人間だとか、どんな真意があったかなどは関係ない。
 相手が善人だろうが悪人だろうが、願ったものが静姫の幸せだろうが不幸をだろうが……結果的に彼女を見放したことに変わりはないのだ。

「それってシズを捨てるのと何が違うのかしら」
「……、」
 
 きっと彼らは静姫を捨てたとも思ってはいないのだろう。
 そんなことくらい、静姫自身も理解している……しかし、それは余計に彼女の心を蝕む事実だ。

「六平千鉱、あなたはとりあえず置くとして……柴に薊。あなた達に聞くわ」
「……うす」
「はい」
「静姫は随分と自罰的な性格をしているわよね。明らかに何も悪くないのに、身に降りかかった不幸は全て自分のせいにしちゃうタイプ」
「!」

 チヒロは驚いて柴と薊に目を向けた。チヒロはそんな彼女を見たことがない。怒られて素直に反省したりする傾向は見られるが、そこまではっきり断言して『自罰的』と言われてしまうほどではないだろう、と。
 しかし、柴も薊もお互いに気まずそうな視線を交わしながら、ゆっくりと首を縦に振った。彼らの脳裏には、静姫が初めて凍霞家の存在を知ったあの日が浮かび出されている。

「なんっ……」
「あなたがそんなシズを見たことないのは当然よ。だってあの娘は相当な猫被りなんだもの」

 まあ、今バラしちゃったんだけど。と悪びれもせずに続けながら沙華はべろっと舌を出した。

「でも勘違いしちゃダメよ。あの娘の『自罰』は精神的な自己防衛なんだから」

 沙華は言う。人は時に自分自身が罰せられるほうが安心するのだと。
 自身に降りかかった不幸の原因が別の人間からもたらされた理不尽など、普通は耐えられないだろう。
 しかし、それが自分が犯した罪だったらどうだろうか……自分が撒いた種なのだから、自分自身がその責任を全て取る方が幾分か踏ん切りがつくはずだ。
 幼少の静姫の取りまく環境は不幸なものと言えるだろう。唯一の幸福は母を愛せたことだけ。そんな彼女が母親と離れ離れになったきっかけは間違いなく凍霞涼花だった。

「でも、そうせざるを得ない程に困窮する羽目になったのは、そもそも誰のせいなのかしらね?」
 
 静姫がボロ布のような服を着て、満足に風呂にも入れずに、時には汚物を喰らいながら過ごして生きていた原因は誰が生み出したか……それは、もしかしたら彼女の母親である四十万紗凪なのではないだろうか。
 紗凪が静姫を守って生きていけるほどの力を持たない社会的弱者だったから。そして、同時に金を喰らいゴミばかり生み出していく静姫の父親を切り捨てることが出来ないほどに優しく、そして同時に愚かだったから。

「でも、そんなことをシズが認めるわけがないわ。全部、ぜーんぶ……自分のせいだっつってね」

 だから、自罰的な考えで『仕方がない』と片付けていく方が簡単だったのだ。自分が母の負担を軽減すれば済む話だから。自分の身に降りかかる苦労は全て自分が片せばいいのだから……自分が悪いから、全ての責任は自分が取ればいいだけだ。
 そんな考えに至るように育っていったのが……四十万静姫という人間だった。

「そんな考えは時に自分に毒よ。でも、シズにはその毒に耐えうるだけの精神力と諦観が既に備わっている。だから、きっとあの娘はその性格について、誰に何を言われても気にしないでしょうね」

 沙華は机の木目をなぞるように伏せていた視線をチヒロに向けた。その視線は蛇のように鋭く、彼を諌めるように冷たい。

「でも、六平千鉱。あなたはどうかしらね?」
「……っ」
「そもそも、苦しみも悲しみもない人生なんてあるわけがないわ。その度にあの娘はどうしたって自罰的に考えては、自分の身に降りかかる不幸を何の気なしに受け入れるでしょうね。何故なら、自分の引き起こした罪がただ結果として現れただけなのだから。でも、あの娘の幸福を誰より願うあなたに、それが耐えられるのかしら?」

 そう、それこそが沙華の言いたいことだった。
 大事な人に幸福に生きてほしいと願う者と、自分はどれだけ不幸であっても構わないと思う者にはどうしても望みに乖離が生じる……そして、静姫はもう既にそれを二度も経験した。
 その三度目のトリガーを引くのはチヒロなのかもしれないと、沙華は言っているのだ。

「それを、俺が耐えられるわけがないと……そう言いたんですか」
「そうよ」

 沙華はきっぱりとそう言った。

「だって、あなたはまともじゃないことしない、まともな人間だもの。いつものシズと違ってね?」
「っ……」

 それは、先ほどチヒロが口走った言葉だった。それを出されて仕舞えばチヒロは押し黙ることしか出来ない。

「まともな人間は大事な人が自身を責めて生きているのを、ただ黙ってじっと見ていることしか出来ないことに歯痒さを覚えてしまうものよ」

 沙華の言葉にチヒロはついつい自分を重ね始めてしまった。
 チヒロは静姫を幸福にしたいのに、静姫は勝手に自分の不幸を受け入れていく。そしてチヒロの差し伸べる手に気付くことすらせずに苦しみながら、悲しみながらもそれら全てを自分の手で片していく。
 もっと自分に力があれば、静姫が苦しむことも悲しむこともないままに幸福にできるのに。いつでも傍にいる自分が不甲斐ないばかりに静姫が幸福にならない。
 それならいっそ。
 自分なんかより静姫を幸せにできるような存在に彼女を託して、手を離してあげるべきなのでは……。

「あらら?」

 沙華の声にチヒロはビクッと肩を揺らし、たらればの世界にトリップしていた意識を現実に引き戻した。
 目の前の女は視線を左上に向けては、口元に手を当てながらわざとらしく惚けたようにこう言った。

「これって何かにとぉっても似てるわね?」
「ぁ……」

 チヒロがつい夢想してしまった世界。
 それは間違いなく……チヒロが静姫を捨てる情景が映し出されていた。

「だから私はあなたがそんな選択を取る前に私にシズを寄越しなさいって話をしたの。お分かりかしら?」

 チヒロは最初に自分で否定しようとした未来の自分をまんまと想像してしまったことに愕然とした。
 あれほどあり得ないと思っていたことを沙華との話だけで簡単に覆されたことに途方もない恐怖さえ覚えた……自分は本当に、あれほど愛してやまない静姫を手放してしまうのだろうか、と。

「それ、は……」
「ま、せいぜい考えておくことね」

 沙華は冷や汗を流しながらも歯切れの悪そうなチヒロを完全に無視しながら、手をパンと一度叩く。
 
「はい、監禁タイムはおしまい。さっさとシズを連れてお引き取り願えるかしら」
「……は?」
「え?」
「ん?」
「お?」

 沙華は、んんっと腕を天井へと突き出すように背筋を伸ばしながらなんでもないようにそう続けた……ずっと固唾を呑みながら二人の会話を見守っていた三人も目が点である。
 
「何よ?こっちには夕食の準備とかもあるの。ああ、忙しい忙しい」
「夕食?早ないか?」
「今でちょうど三時ぐらいだな」
「えっでも俺めっちゃ食うよ!」
「お前らは食べ盛りの十代後半男子の胃袋を随分甘く見ているようね。自分達がそうだった時代も忘れて、なんて憐れなのかしら」
「ほんっとに隙あらば殴ってくるのやめぇや伊澄ィ!」
「事実陳列罪でしょっ引かれますよ!」
「日本国憲法にそんなものはないわ」
 
 静姫を寄越せ、と言う割にはチヒロの返答を聞かないままに話を切り上げようとする様子を見るに、この場で彼が静姫を明け渡すことなどないのだろうと最初から踏んでいたのだろう。
 なら、何故こんな話をしたのか……そんなことは分かりきった話だ。

「……忠告だったんですね」
「さあ、なんのことかしら」
 
 沙華は雑にしらばっくれる。
 だが……。

「肝に、銘じておきます」
「……ふん」
 
 それこそが沙華なりの返事なのだろう。
 この人はもしかすると、実は不器用な人なのかもしれないとチヒロはつい表情を柔らかくしてしまう。

「それにしても、沙華さんはシズのこと本当に気に入ったんですね」
「ええ」
「気に入っているのに、シズが不幸でも構わないと?」
「構わないわね。どうでもいいわ」

 それはまるで、全く興味のないものに対して向けたような言葉にも聞こえた。
 しかし、その瞳の奥にはまるで何かを慈しむかのような……それでいて、何かを悔やんでいるような憂いの色を映し出している。

「だって、私はあの娘の……自分の身に降りかかる全ての事象を決して誰にも譲ろうとしない、誰のせいにもしてくれない絶対不可侵の神聖さを気に入っているのだから」

 だからね、六平千鉱。

「あなたにはつい強く当たっちゃったわ。あなただけはきっと、そんなシズの心の奥に入っていけるもの」

 沙華は静姫が苦しんでいようが悲しかろうが耐えられる……いいや、耐えるなんて概念が存在すらしない。
 そんなものよりも、もっと許せないものがあったのだ。

「私はただ……私が絶対触れられないような美しい場所を、土足で勝手に踏み荒らされるのが絶対に嫌だったの」

 それだけよ。
 ただ、それだけの話だったの。