嗚呼なんと罪深き彼服よ
羅幻が吠えた。
「ウワァアァアアァアアアアーーーッ!!」
あまりの目の前の光景の耐え難さに、羅幻は咽び泣き、のたうち回り、床にしがみつき、喉が引き裂かれるほど咆哮するほか苦しみから逃れる術を持ちえなかったのだ。
「ウァアァアッ!ワァアアアッ!!」
いや、正しくは逃れられてはいなかった。彼はその衝撃を吸収することができず、まるで脊髄反射のように地に伏せその圧倒的な力の前にひれ伏すしか出来なかっただけだ。
そんな羅幻を憐れで矮小な生き物を見るかのような視線で串刺しにし立ちはだかる者がいた。
その人物こそが彼をこのような状態たらしめた元凶である。
そして、その女は……一等冷たい声色で言葉を発した。
「何やってんすかこの馬鹿」
「ありがとう……!ありがとうっ……!」
「気にしないであげて。萌えてるだけよ」
「ちょっとキモいんで燃やしてきてもらっていいですか?」
チヒロと沙華の話が終わり、離れの鍵がガチャリと開いた時、静姫はとっくに支度を終わらせては寝そべりながらアルバムを見ていた。
元々彼女はいつ帰ってもいいように軽く荷物はまとめていたし、殆ど着替えだけで済むだけだったのにわざわざ監禁とは……やれやれ、と思いながら立ち上がった瞬間、急に羅幻が感謝の絶叫を上げ、体全体で床を鳴らしたのだ。
あまりに謎すぎる状況だし、明らかに静姫の姿を見た瞬間に倒れた。よくわからないが、大変不愉快である。静姫はそんな羅幻を腕を組み仁王立ちで見下ろすが、その腕は少々組みづらそうであった。
その理由は単純明快。不自然すぎるほどに、彼女の袖が余りまくっているからだ。
「あの、シズ……」
「ん?あれ、なんかチヒロくん顔赤くね?風邪とかじゃないやつだよね、大丈夫?まさか本当にセクハラされたとか……?」
「……」
「何その無言怖い!」
セクハラはされてな……うん、まあされてない、とは思う。「ティーンエージャーの健康体を好きに彩れたのは……!」とかいう発言を聞かされたがセクハラはされていない、多分ギリギリで。されてたとしたらおそらく静姫の方だし。
そして、静姫はチヒロの顔が異常に明るめになってしまっている理由を沙華からのセクハラなのではないかと疑っているが、それは大きな間違いで……その原因は静姫の着ている服にあった。
「シズ、その服は、どうしたの?」
「え?なんか、此処にあった……これも羅幻が作ったやつかなぁって」
「それにしては、サイズ合ってなくない?」
「うーん、確かにブカブカっぽいけど、そういうタイプの服かなって」
羅幻は確かに静姫へと思い、大量の服を縫い上げた。その大多数がロリィタではあったものの、それ以外の服だって製作してはいたのだ。そして、そのどれもが静姫の体型に合わせたものでサイズに狂いはなかったはず。
しかし、静姫が現在着用しているものはモノクロ調のどこか紋付袴を連想させるものだが、それは彼女の体には明らかにオーバーサイズのもの。袖だけではなく、裾も襟もあまりにあまっていた。
静姫はこの服を何の気なしに着た。デザインがなんだかシックで彼女の好みに合っていたし、特に理由はなかったがこれもきっと羅幻の作ったものなのだろうと……彼が製作した服には全て袖を通したが、これは見覚えはなかった。だからこれも一度着るべき道理があると思っただけだ。
だが、チヒロはその服を見たことがある……父の携帯に保存されている写真フォルダの中で。
チヒロだけではない。沙華にもその服の正体も、羅幻が何故地に伏せたかの理由の全てを察した。
柴や薊にだって、一目見ただけでそれは羅幻が製作した服ではないと分かったし、とてもよぉく見覚えのある、その服は。
「シズ、それは神奈備の隊服よ」
「え?」
「羅幻が仕事で着てる物の予備」
「まじか」
「かっるいねん!」
いまいち、ことの重大さに気付いていない静姫だけがあっけらかんとしている……そう、静姫だけが気付いていない。
羅幻ははっきり言って体格が良い。中身が綿とはいえ、身長2メートルのみたらしが寄りかかってきてもなんなく抱き止めることが出来るほどだ。胸板も厚ければ身長も高い。
そんな羅幻の隊服を静姫が着たのだ。彼女も同年代と比べると身長も高く筋肉量もある方だがまだ十三歳という成長途中の女子。ブカブカになるのは当然である。
しかも、さらに問題なのは……上着は羽織ってはいたものの、裾が絶妙にあまってたせいか下の存在に気が付けなかったらしく、静姫はズボンを履いていない。
そういえば、彼女は六平家に来た当初は大人ものの大きなシャツを一枚着ただけの格好だった。そういう経験のもと「そういうこともあるんだな」くらいに捉えてしまったのだろう。
つまり、今の静姫は黒い上着から伸びた生白くすらっとした太ももを曝け出し、まるで少々短めのワンピースを着ているような格好になってしまっている。
この状況は静姫はただ隊服を着た、ということでは片付かない。
これはアレだ。俗に言う『彼シャツ』ならぬ『彼隊服』になってしまっている……羅幻の服で、チヒロの目の前で。
だというのに、静姫はただ単に『着る服間違えちゃったわ失敬失敬』くらいの認識で終わらせているせいで、柴がつい口にしてしまった言葉に対しても「あ、そか」となんでもないような声で返事をしてしまっていた。
「すみません、この服着てめちゃくちゃ寝そべりました。洗ってお返しします」
「いえ、洗わず返しなさい」
「え?……んー、分かりました。それでいいのなら。じゃあ、今から脱いでお返ししますね」
「えッ!?」
「うお」
どうやら、羅幻は蘇生に成功したらしい。
きっと今回のザオリク代わりになった呪文は静姫の『脱いでお返ししますね』という言葉だったのだろう……「笹食ってる場合じゃねぇ!」くらいの勢いで起き上がった羅幻はそのまま決死の表情で閉められないように扉を押さえ始めた。
「ごめんね羅幻、勝手に着て。今から着替えるからそこどいて扉閉められない」
「やだっ!待って待って待って!脱がないで!」
「いや、脱がなきゃ帰れないんだよ。帰るんだよ私は、どきな」
「やだ!」
「どきな」
「やだぁ!」
予期せぬ攻防戦に発展してしまった。
チヒロは正直、羅幻があからさまに自分の服で、静姫の彼隊服モードの維持を切望していることに遺憾の意を唱えまくりたい。
しかし、今はそんなことよりも静姫が激しい力を込めているせいで、着用している隊服の裾がヒラヒラと揺れているのが気になってしょうがなかった。
普通にしている分には支障はないが……それでも丈が短いことに変わりはなく、かなり怪しいことになってしまっている。
万が一、捲れでもしたら本当に目も当てられない事になるだろう。多分、ほぼ文字通りに。
「羅幻さん、ちょっ」
チヒロが焦りのまま羅幻の肩に触れようとした、そのとき。
「スゥゥウ……」
一拍だ。一拍程の短い間で、ゆっくり深く息を吸うような音が……。
「ふんァッ!」
「ゴッ……!」
そして、次の瞬間には何やら厳つい声と衝撃が羅幻を襲い、彼はそのまま宙を舞った……まるで、チヒロの手を弾くかのように。
羅幻の体は速度を落とす事なく飛び、背を壁に打ち付け、そのまま再び地に沈む。今度は手を床ではなく腹に当てて悶絶し始めていた。
そして、彼をこのような状態たらしめた元凶である静姫は、一等冷たい声色で言葉を発する……激しすぎるデジャヴと共に。
「どけ」
もうどいてる……。
「なんて、なんて美しいデトロイトスマッシュなのかしら……」
あの沙華様が素直に感心している……。
勝手に服を借りたことは申し訳ないとは思っているが、それはそうとして帰宅準備の邪魔をしていい理由にはならねぇ、と……静かにキレ倒している静姫は羅幻をプルスウルトラした後、バタムッと扉を閉めた。
「……シズって強いんですね」
「あのフォームを見たところ、指導者は柴じゃなくて薊ね?」
「お前、俺の目が離れた隙に何してくれてん」
「物覚えがいいからつい……」
「……う、産めなくなっちゃう」
「元々産めないので羅幻さんは何も失ってないですよ」
「それに今のは羅幻が悪いわよ。後でちゃんとごめんなさいをしなさいね?」
「うん……」
伊澄家以外の三人は、室内のゴソゴソという着替えの音を聞きながら……「なんで伊澄沙華は孫への教育だけは間違ってないんだ」という疑問を浮かべていた。
*
「シズちゃんごめんなさい」
「おお、想定より元気そうな羅幻だ」
着替えを終えた静姫は、黒いワイシャツとスラックス、それから深緑のベストを着て出てきた。首元には藍色のネクタイを締めている。どれも羅幻が製作したモノだが、唯一レザーグローブだけは自前であった。ちなみに、この格好は『男装スタイル』であるらしい。
「テンションが上がっていたからとはいえ、シズちゃんの迷惑も考えず邪魔をしたことを反省していますその服も似合ってて素敵カッコいいね」
「反省か賞賛かどっちかにしな?」
「カッコいい」
「ふふん」
「ええんかそれで」
先ほど着用していたゴスロリとは打って変わってスッキリとしたフォーマルさを思わせる服装だ。
静姫の好みであるのか、その姿を褒められたことで大変ご満悦の様子。先ほどの羅幻の言動にお許しを出しているようだ。
「あら、ロリィタじゃなくていいの?お姫様みたいで可愛かったのに」
「いや、可愛らしい服もカッコいい服もどちらも好きですよ。ただ、色々考えたんですけど……私ことシズちゃんは完璧にビューティフルだから姫と皇子の両刀イケるだろうし、どちらかと言えば雄側に寄せた方が属性的に『沼』だろうと思って」
「ようやく自分の強みを『理解って』きたようね」
先ほどまで「プリンセスは勘弁して」と限界まで羞恥していた静姫とは思えない返答であった。おそらく羞恥心を覚えるピークは過ぎて悟りを開き始めたのだろう。流石は順応が早すぎることに定評がある四十万静姫である。
「でも、神奈備の隊服着たシズちゃんの写真は……一枚だけでも欲しかった……」
「なんだこいつ」
しかし、羅幻は割と……いや、かなり悔やんでいるらしい。
どうやら、先ほどの静姫のダボダボ神奈備隊服は尋常じゃないほどに羅幻のハートを貫いていたようだ。なんてこったい、目の縁に涙まで溜めている。
彼が言うには、先ほど静姫の着替えを阻止していた理由は写真撮影を希望していたからであるとのこと。
「さっきからさぁ、その隊服に対する拘りは一体なんなの。羅幻の好みはロリィタでしょ」
「そういうことじゃ……!そういうことじゃないの……!」
「はん?」
静姫は本気で不可解だと言いたげに小首を傾げる。はてなマークを飛ばしながらも眉間にシワを寄せ、異文化の民族を見るような目を羅幻に向けていた。
「シズ、いいことを教えてあげる」
「……イイコト?セクハラ以外ならいいですよ」
「なんでもアッチの方に発想を向かわせるんじゃないわよエロガキ」
「いーえいえこれも沙華様の教えの賜物です」
「誰が生来セクシーダイナマイトですって?」
「言ってないですよセクハラ大明神お婆さま」
静姫が若干の下ネタを自然に言うようになってしまった。最悪だ。
しかも、邪な思いも悪ふざけの茶化しでもない、さらーっと慣れた様子なのが余計に嫌だ。全く動じないこの精神力を培うまでに、一体どれほどのセクハラを受け続けたというのだろうか。
「シズ、男っていうのは女に自分の服を着てもらうとド興奮しては野生に還る憐れな生き物なのよ」
「セクハラじゃね?」
「これは注意喚起だからセーフよ」
「判定ガバくない?」
それに関しては判定が怪しいところだ。しかし、沙華の言うことにあまりに身に覚えがありすぎる男性陣は何も言うことが出来ない……チヒロは先ほどの静姫を思い浮かべては顔を伏せ、大人二人はいつの日か見た年齢制限のある雑誌を思い浮かべては天を仰いでしまう。
そんな三人も、正直なところ静姫はあまり軽率に自前のものではない男の服を着ない方が絶対にいいと思っている。
「なんで服くらいで野生に還っちゃうんですか。布で人類史四百万年が覆っちゃうって生物として脆過ぎますよホモサピエンス」
「それは典型的なPTN理論ね」
「ピ……なんて?PTA?沙華さんついに呼び出しくらったんですか?」
「ついにって何よ失礼ね。それに羅幻はとっくの昔に卒業したからもう会員じゃないわよ」
「すみません、会員だった過去がある事実にかなり驚いております」
どこかのムダ毛フェチのようなことを言う沙華の意外な過去。結構ちゃんと羅幻の保護者をやっているようだこのお婆ちゃんは。柴よりも出来ているのではなかろうか。是非とも他の面でもその気を向けて欲しいものだ、切実に。
「要は概念的な問題なの」
沙華は『彼服』というものについて語り始める。
個体差はあれど、遺伝子的にホモサピエンスは男性より女性の体格が劣る事が多い。
そして、衣服とは着用する者のニーズに合わせて作られるので、男性物の衣服は女性の体格に対して基本的に大きすぎる場合が殆ど。
そこで敢えて、全くサイズの合わない男性服を女性に着せる事でそのアンバランス差が引き立ち、概念的な『小柄な女子』が存分に表されるのだ。
しかも、それを着ているのが「雄側に寄せた方が属性的に『沼』なシズちゃん」なのだから、そのバランスの高低差はひとしおだったであろう。勇ましい女が見せる女性的な可愛らしさはまさに暴力である。
「加えて、着ているものが『自分の服』ということでその格好を視覚情報で受け取る側は多少なりとも瞬間的な『征服』を覚え、それは『萌え』に直結するのよ。要はシズが自分のブカブカの服を着ているのが羅幻には非常に刺激的だったのよ、分かった?」
「……とりあえず、隊服は洗ってお返しするべきだということは理解しました」
静姫は沙華による懇切丁寧な解説をよくよく受け止め、そっと部屋から畳んでおいた隊服を音もなく回収した。なんか、ヤダ。色々と。
「遠慮しなくていいのに」
「遠慮ではなく回避です、あらゆる可能性の」
「俺が洗うよシズ」
「頼んだよ、チヒロくん」
「お願いね、チヒロくん」
「羅幻まで言うんだ……」
「だって俺じゃもう洗えないよ!誘惑が!」
「さては沙華さんの子孫だなオメー」
「うん」
間違えて隊服を着ただけなのに、なんだか思ったより色々とよくない事態に発展していた事にようやく気づけた静姫。己のビジュアルの良さは人を狂わせるのだと再確認したらしい。
静姫は反省しつつも「前に薊さんに提案された神奈備入隊の件、速攻で蹴ったの少し惜しかったな。まあ絶対入らないけど」などと考えていた。神奈備の隊服デザインが静姫の好みだと事前に知っていたのなら彼女はもう少し揺らいでいたのだろう。
こうして静姫のジェンダーレスファッション爆走物語が始まるのであった。
「危ない危ない、六平家の引きニート志望でなければ働いていた」
「働くに越したことないやろ」
「十三歳に労働を強要しないでください、むしょン゛ン゛ッ……師範」
「お前無職言おうとしたやろしばくぞ」
「デカい口を叩くんじゃないわよ無職」
「フリーの妖術師ィッ!!」
沙華様の一言で一人のいたいけなおじさんの心に深い傷が刻まれた。別に働いてないわけじゃないのに。
しかし、十七歳である羅幻でさえ定職についているこの場ではいかに妖術師界の天井を叩く男でさえも社会的ヒエラルキーは低いこと自体は現実である。世知辛い世の中だ。
「あっそうだ、羅幻。確認なんだけど本当に羅幻が縫ってくれた服は貰っていいの?荷造りの間に少し頂いてるけど……」
静姫が荷物の最終確認のために、羅幻に服について聞くと彼は目に見えて顔を輝かせ始めた。
「ロリィタ!?」
「ロリィタとか男所帯の六平家で着れないから。ジェンダーレス系の服と部屋着用に浴衣とかなら数着ずつ……」
「ロリィタは!?」
「いや話聞いてた?だから、ロリィタは……」
「軍服でも!?」
「……軍ぷ、いや、うん、あの」
「軍服ロリィタのシズちゃんってすげー姫騎士みたいでカッコよかったのに!?」
「頂こうかな軍服も」
「やった、やった!是非デートで着てね!」
「姫騎士で売り込んだのに?」
羅幻は余程静姫のロリィタ受け入れが嬉しかったのかルンルンとご機嫌で軍服ロリィタを丁寧に紙袋にしまい、ロリィタ服の取り扱いについて説明し始めた。
「……」
チヒロは目を細めて羅幻をよく観察する。
先ほどから気にはなっていたが、羅幻の静姫に対する接し方が確実に普通ではない。
彼は元々基本的に誰にでも友好的な人間だと言えるし、静姫への対応もチヒロを持ち上げてクルクル回り出すような無邪気さから来るものとも捉えられるかもしれない。
しかし、チヒロの目を誤魔化すことだけは絶対にできない。誘惑がどうのだのの発言もそうだが、彼の一挙手一投足と静姫を見る目の色が彼女に対する『ソレ』をよく物語っていた。
「あ、羅幻。ついでにもう一つ確認なんだけどさぁ」
「なぁに?」
だが、そんなことをこの場でわざわざ問いただす必要もないだろう。
タイミングというものがあるし、そもそもチヒロにはそれについて責めるような権利もないのだから……。
「羅幻って私のこと好きだよね?」
「はわ」
「シズーーーッ!?」
なーんてふうに、せっかくチヒロが思案しつつも押し込めていた疑念を……静姫は遠慮せずにばっかんと切り開くなどという愚行に走った。絶対に『ついで』で済ませていいことではないだろうに。
おいおい、台無しだよ。やはり、彼女はまともではない。
驚きから珍しく大きな声を出したチヒロの後ろで、柴は額を抑え、薊はこめかみを揉み、沙華はケラケラと笑っていた。