2. ハロウィーンのルール
「トリック オア トリート!」
お菓子をくれなければ悪戯するぞ、というハロウィーンお決まりの台詞を元気よく口にして、ヒトハは片手を突き出した。
「……お前は渡す側だろう」
「それは、そうなんですけど」
クルーウェルは差し出された手を見下ろし、呆れた顔をした。どうやら自分はお菓子か悪戯か、どちらかを選ばなければならないらしい。
ナイトレイブンカレッジのハロウィーンウィーク。一週間にわたって学園を開き、麓の街や外部の人たちをもてなす特別なイベントだ。生徒たちは寮ごとに決められたエリアを盛大に飾り付けてゲストを楽しませる。一方、職員などの大人は裏方に回り、いつも以上に学園内を歩き回って仕事に励む。こうして各々が各々の役割を持つ中、全員に共通した役割が一つあった。
「トリック オア トリート!」
「はい、どうぞ」
ヒトハは膝を折り、目の前に差し出された小さな手に袋を一つ乗せた。可愛らしいハロウィーンの装飾がされた半透明の袋から、色とりどりのお菓子が覗く。お菓子をもらった男の子は頬を淡く染めて「ありがとう!」と言い残すと、遠くで見守っていた両親の元へ駆け寄る。ヒトハはそれを手を振りながら見送った。
ハロウィーンといえばこの台詞、「トリック オア トリート」である。ゲストをもてなす学園側の生徒も職員も、求められたらお菓子を渡さなければならない。さもなくば悪戯が待っている。
そういうわけで、ヒトハはハロウィーンウィーク中はどこへ行くにしてもお菓子を携えていた。学園側からの支給品で、小さな袋にキャンディやチョコレート、マシュマロが詰め込まれている。これを子供たちに渡すのは楽しく、そして新鮮だった。
なぜならヒトハの故郷では、ハロウィーンはあまりメジャーなイベントではなかったからだ。
「私のいた地域ではハロウィーンの文化はあまり根付いてなくて。お菓子を貰って回るのも、小さい頃に一度あったかなかったかくらいです」
お菓子の袋を補給しに来た校舎の一室で、ヒトハは休憩がてら、同じく休憩中のトレイ、ケイトと話し込んでいた。
話題はハロウィーンについてで、幼い頃の思い出をぽつぽつと共有する程度のささやかな雑談だ。
ヒトハは手にした可愛いお菓子の袋を眺めながら、しみじみと言った。
「だから結構新鮮ですね。こうして渡す側になってから満喫することになったのは、ちょっと残念ですけど」
ハロウィーンというイベントを盛大に催しているのを見るのは、テレビの中だけのことだった。ヒトハの住んでいた極東の小さな島国では関心を持つ人があまりおらず、お菓子を貰うどころか渡す機会すら少ない。こうしてナイトレイブンカレッジへ来なければ、あれだけたくさんの人たちにお菓子を配ることもなかっただろう。
「せっかくならうちの寮生にでも声をかけてみたらいいんじゃないですか? あいつら喜んでお菓子をくれると思いますよ」
そんなヒトハに、トレイは優しく言った。せっかく人生で初めて全力で楽しむハロウィーンに、渡すばかりではやはり味気ない。貰う側に立ってみてもいいのではないか、と。
確かに、生徒たちに声を掛けたなら面白がってお菓子をくれるだろう。それがこのハロウィーンのルールで、醍醐味だ。
「そうですねぇ。でも、生徒たちに渡すのはいいけど、貰うのはやっぱり気が引けますね」
ヒトハはトレイの提案に、苦笑しながら答えた。
ただでさえゲストへの対応に忙しい彼らに、わざわざ「お菓子をくれ」と言いに行く勇気はない。自分は大人で、どちらかというと彼らに与えなければならない立場だ。
すると今までスマホ片手に聞き手に回っていたケイトが突然口を開いた。
「それなら丁度いい人がいるじゃん」
にっこりとした彼の笑顔に、ほんの少し悪戯な表情が見えたのは、きっと気のせいではない。
「で、俺のところに来たわけか」
「はい! そういうわけなので、『トリック オア トリート』ですよ、先生!」
ケイトの言う“丁度いい人”は、お菓子を出すわけでもなくヒトハの前で腕を組んだ。
「残念だが、先ほど“小さなレディ”に渡したのが最後だ」
ヒトハはクルーウェルのやたら気取った物言いに目を瞬いた。
「なるほど、そうやっていたいけな少女たちの初恋を奪っていくわけですね。恐ろしい……」
「そうだな。のちに現れる男どもが不憫でならない」
「はいはい、高いハードルですね」
ヒトハはジョークとも自惚れとも取れる言葉に、平たんな声で返した。
このハロウィーンウィークで発覚したことだが、外部の人間と接するとき、彼の普段の飼い主的な荒々しい振舞いは嘘だったかのように鳴りを潜める。妙なまでの礼儀正しさと紳士的な振舞いで完璧な男を演じて見せるのだ。
ヒトハがそれを初めて目にしたとき、彼の仔犬たちが「学園長が来ると立ち方が変わる」と言っていたことを思い出した。彼は持ち前の要領の良さで、見せるべき姿を見せるべき人に見せて、それを悟られることがない。
きっといたいけな少女たちは見目麗しい紳士的な大人の男にときめいてしまう。自分は彼女たちのような扱いを受けたことはないから知り得ないことだが。
ヒトハは差し出した手を引っ込めて口を尖らせた。
「ということは、選択肢としてはもう悪戯しかないのですが?」
するとクルーウェルは小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「お前が? 俺に?」
そして腰に手を当て、悪戯を受け入れるどころか挑発的に煽ってきたのだった。
「やれるものならやってみろ」
さすがにこれにはカチンときて、ヒトハは先ほどクルーウェルがしていたように胸の前で腕を組んだ。
こうなっては全力で悪戯をする他ない。あっと言うような酷い悪戯で、危険ではなくて、ついでに言うなら、へそを曲げて今後一か月引きずられない程度の。
段々弱気になってきた自分を奮い立てるように、ヒトハは思い切って人差し指を地面に向けた。
「先生、『お座り』」
「お前は誰に物を言っているんだ?」
「な……何でそんなに強気なんですか……?」
しかしここで引き下がるわけにはいかない。彼はお菓子を持っていなかったのだ。
「私は大義名分を得たんです! 拒否権はありませんよ! ほら早く!」
ぐいぐいと両肩を抑えてしゃがませることに成功すると、ヒトハは遠慮なしにクルーウェルの頭に手を乗せた。
「あっ、おい!」
そして大型犬の頭を撫で回すように、両手でガシガシと髪を乱す。思いのほか柔らかな黒と白の髪は左右に入り乱れ、後ろに流した前髪が落ち、無造作な髪型へと変貌していく。
クルーウェルは一瞬怯んでいたかと思うと、慌ててヒトハの手を跳ねのけた。そして立ち上がり、数歩距離を取る。
「――クソ! ナガツキ、貴様!」
クルーウェルは乱れた前髪をかき上げ、青筋を浮かべながら吠えた。今朝整えて来たであろう彼の完璧なまでのセットは崩れ、今や寝起きの姿まで戻っている。
ハロウィーンウィークに入ってから久しく見ていない荒々しい姿に、ヒトハは思わず噴き出した。
「ゲストの前で『貴様』とか言っちゃダメなんですよ? 先生、お
髪が乱れていても素敵ですね! さっすが初恋ハンター! では!」
ヒトハは早口に言い捨てて素早く踵を返した。背中に何やら呼び止める声が聞こえてくるが、何一つ咎められるようなことはしていないのだから、足を止める必要はない。
クルーウェルはお菓子を持っていなかった。それならばどれだけ腹立たしくとも悪戯を受け入れなければならない。なぜなら、それがこのハロウィーンのルールで、醍醐味だからだ。
校内を駆け抜け、ヒトハは植物園の入り口近くまでたどり着いた。休憩を終えたトレイとケイトを見つけ、手を振りながら駆け寄る。
彼らは額に汗を滲ませて満面の笑みで駆け寄って来るヒトハに驚いて「どうしたんですか?」と問い掛けた。クルーウェルにお菓子を貰ってくると言って別れたヒトハの手にお菓子はなく、ただ満足げな顔をしているだけだ。
まさか、と事態を察したふたりを前に、ヒトハは笑顔にほんの少し悪戯な表情を滲ませた。
「ふふ、ハロウィーンってやっぱり楽しいですね!」
2022.02.27