小さい頃の話

ヨコハマの一等地に拠点を置いてから幾月か経過したある日。名前は日の当たる場所に座って本を読んでいた時であった。
「ねえ、中也って小さい頃どんな感じだったの?」
そう名前に話しかけたのは、桃色の髪を靡かせる柚杏である。
柚杏が羊に加入したのは、既に中也は意思疎通が出来るようになっていた時であった。柚杏は中也がどうやらお気に入りのようで、最近はよく中也と連んでいる。彼の事を途中からしか知らない柚杏は、中也の世話係であった名前に話を聞いてみようと中也の居ない時を狙って声を掛けたのだった。
声を掛けられた名前は、どういった心変わりなのだろうかと疑問で頭が支配された。拠点に居る以上彼女と中也が共に居る姿を度々目撃してはいたが、柚杏と名前の関わりは必要最低限のものであり別段仲が善い訳でもない。同じマンションの住人といった距離感が妥当であろうか。エントランスで会えば挨拶をする程度。彼女達の関係性はそのような細い細い縁であった。
「えっと、いきなりどうしたの?」
「1番中也と仲良いって聞いたから教えて欲しいなーって」
自分は別にどういった感情も持ち合わせていないが、相手は恐らく違うだろうと名前は思っていた。一瞬勘違いかとさえ思えたが、彼女が居る時に中也に話しかければ冷たい目で見る態度はどう考えても善い感情は持ち合わせていないだろう。
人間であるから多少なりとも性格や人間性、相性など合わない人は居るし、例え仲間だからと云って仲良しこよしを強要する積りも無い。喧嘩をして空気が悪くなったといった類いでも無いので互いが干渉しなければ問題無いだろうと名前は考えていたのだが、どういった心境なのだろうか。名前は彼女の気持ちを計り知れないが、昔話に興じてみた。
「うーん…中也は最初お話出来る子じゃなかったんだよね」
「人見知りとか?」
向かいに設置されている椅子に腰掛けた柚杏は、爪に塗っているマニキュアの剥がれ具合を確認しながら名前の話を聞いていた。名前は特に気にした様子もなく、柚杏の目を見たり記憶を探ろうと時折視線を彷徨わせながら話す。
「否、赤子返りって云うのかな?言葉そのものを知らない赤ちゃんみたいな子だったの」
「赤子返り?」
「小さい子が赤ちゃんみたいな行動を起こす事だよ。」
「中也もしてたって事?」
赤子返りの意味がピンと来ていない柚杏はきょとんとした顔で名前の顔を見る。この日初めて目が合ったなと名前は思いながら説明をしていった。
「中也に関しては言葉すらも知らなかったんだよね。見た目は7歳、中身は0歳みたいな」
「本当の赤ちゃんみたいだったって事?」
「そうそう。最初は意思疎通が出来ないから皆四苦八苦しててね」
「そーなんだ」
「白瀬も結構手を焼いてたと思うよ」
「へー。白瀬も結構ここに居るの長いんだよね?」
「私よりも長いよ」
そう伝えれば名前に用は無いといった表情で椅子から立ち上がった。
「白瀬にも聞いてくる」
「うん。それじゃあ」
名前は柚杏に対して軽く手を振ってその背中を見送りつつ、栞を挟んでいた本に手を伸ばした。ペラペラと音を鳴らしながら擦れる紙と共に、再度近づいて来る足音。
それは柚杏のものであった。何か忘れ物でもしたのだろうかと顔を上げれば、柚杏はいつもの冷たい目で座った分小さい名前を見下しながら質問を投げかけた。
「ねえ、中也の事好きなの?」
「え?うん。好きだけど」
そりゃ手塩掛けて育てた弟分が可愛くない訳が無い。あまり人に入れ込めば何かあった時に返って自分が苦しくなるのは分かっていたが、それでも自分を慕ってくれる彼を突っぱねる事は出来なかった。まあ、そろそろ反抗期の時期を迎えるしきっと徐々に自分から離れていくだろう。想像しては少し寂しくはなるが、名前は胸張って中也は大事な人間だと云える。そもそも、反りが合わないのであれば今頃中也との関わりを必要最低限なものにしているだろうし。
「ふーん。」
面白く無さそうな表情をしながら、柚杏はその場を立ち去った。
何の気まぐれかは知らないが、名前は別に柚杏の事を何とも思っていなかったので会話が出来た事は新鮮であった。きっとこの日限りの気まぐれであろうが名前にとっては新しい人間と交わる機会が設けられ、苦手意識を持たれてる相手に対しての関わり方などを知れた善い機会だとポジティブな方向で捉えた。名前はそのまま本に視線を落とした。

次の日、やけにご機嫌な様子で名前の周りに常に居る中也と、その2人を見てざわつく羊達を見て名前は首を終始傾げる事となった。