本丸襲撃の話

女は走っていた。地面の凹凸に足を取られ躓こうが、地面に身体を叩きつけられようが、足から血が流れようが女は足を止める事は無い。ただただ遠くへ行かねばならないという気持ちで足をひたすら動かしていた。
女の心中は穏やかでは無かった。焦り、恐怖、疑問、不安。その気持ちを取り除きたいと強く感じるも、その術は存在しなかった。頼りになる近侍は近くに居ない、その彼に指示されてこうやって走っているからだ。周囲に誰も居らず、ただ女は近侍に言われるがまま木々の間を縫っては本丸の中心地から逃げようと必死であった。何故女が逃げる状況になったのか、それは数分前に遡る

女は執務室でいつも通り報告書を書き上げていた。近侍は女の背後で四肢を投げて寛ぎ、たまに女にちょっかいをかけては怒られる。そんないつも通りで変わり映えの無い日々、今日も何も特別な事は起こる事もないだろう。そう思っていた。
変化は唐突に訪れた。大地震が来たかのように本丸の神域が揺れた。その振動は激しく尻が浮き、身体のバランスが崩れその場に転がった。上から降ってくる本などの類いから身を守るべく近侍は女の上に覆い被さり、振動が収まるのを待った。
次第に振動は収まった。近侍は女を担ぎながら本体を取りに自室へ向かう。廊下に出れば同じく状況を確認しようと出てきた他の刀剣男士も騒然としており、その手や腰には刀を拵えている。女を守ろうと周囲を警戒していた、その時だった。
「全員戦闘用意!時間遡行軍襲来!」
「門前から来てるぞ!」
刀剣男士がそう叫んだ。騒然としていた周囲は一変し緊張が走る。
「主は政府に連絡を!」
次々と戦闘体制に入る刀剣男士が遡行軍の方に向かい、主と呼ばれる女の近くに居た一振はそう声を掛ける。未だに女を担いだままの近侍は、門前とは正反対の方角に走った。
「主、ちょっと揺れるが我慢してくれ」
「う、うん」
「大丈夫さ、救援を呼べばすぐに来てくれる。それに俺が着いている」
「…それなら、安心だね」
担がれた女の表情は険しい。混乱を起こしても仕方ない所だろうが女の受け答えははっきりしていた。
離れには緊急時の備えの道具が揃えられている。政府に連絡出来る機械、簡易的に貼れる結界、隠し通路。近侍は瞬時にそれを思い出してはそちらに足を向けて足を前に動かす。もっと、もっと早く。女を落とさないよう注意を払いながら長屋の廊下を抜け、庭に出た時だった。離れに群がる時間遡行軍が目に入った。
「え…」
「…っ!主、下がっていろ」
遡行軍はまだこちらに気づく事は無い。奴らも莫迦では無いのか、まず命綱である連絡を断とうと必死であった。柱は切り落とされ、屋根が落ち離れは無残な姿となっていた。これでは隠し通路から脱出も困難そうだ。
否、そういえば隠し通路の1つにはこの先にある山奥に出られる場所があったはずだ。そこから通路に入れば或いは。
「主、よく聞け。この先にある山奥に伸びる隠し通路があったはずだ。そこに向かえ」
「う、うん、でも鶴丸は、」
「ここで奴らを足止めする。安心しろ、俺より先には進ませはしない。主は前だけを見て走れ」
「…死なないでよ」
「はは、主に言われちゃ仕方ない。走る準備は?」
「出来てる」
「よし、…行くぞ!」
そう叫んだのを皮切りに、近侍は女の手を引いて走り出した。離れの横を抜け、山奥へ。遡行軍は女に気づき、刀を構える。その時には手前に立っていた遡行軍は既に近侍の刀に斬り伏せられていた。
「行け!」
離れに居る遡行軍の数が多く、女の手を離して叫ぶ。女は一度迷いを見せたが、近侍の腕を信用したのか足をもつれさせながら山奥へと駆け出した。

「確かここら辺だったはずなのに…!」
女は隠し通路の出口があるだろう場所まで来ていた。記憶の地図で確認するに、恐らくここ一帯の何処かにある筈なのだが木々の落ち葉や土で目視では確認出来ない。早くここから脱して政府に救援を呼ばないといけないのに。この1分1秒といった時間さえも惜しい。女が焦れば焦るほど周りが見えなくなり、刻一刻と時間だけが過ぎていく。
「あ、あった…!」
そう言葉を呟きながら女は見つけた隠し通路の出入り口に近寄り、扉を開けようと手を伸ばす。
その背後には、刀が一振。

鶴丸国永は山奥を駆けていた。その姿は満身創痍で、明らかに重傷の身なりをしているのに何故山奥を駆けれるのか疑問である。
鶴丸には主が居た。その女は先刻この山を走っていた筈、その女を早く見つけて政府に行けるまで護衛しなければ。その気持ちだけで近侍は斬られた身体をものともせず、ただ全速力で女の姿を求めて走る。
どれ位走ったであろうか、頭の地図ではこの辺りに通路の出入り口があった、はずだ。
「主…?主!」
辺りに立ち込める鉄錆の臭い。厭な予感がしていた、それでも彼女なら大丈夫だと、そう信じたかった。
近侍は横たわる女に近寄った。その身体を抱き起こしてみれば、既に女は事切れていた。
「あるじ、主、起きろー、俺が迎えに来たぜ、ほら…早く政府に向かうぞ」
近侍の後ろから、遡行軍が一振近づいてくる気配を感じていた。
近侍は女の身体を抱き離すまいと力を込め、目を瞑った。