こいつの事、もっと知りたい。
他の誰でも無い俺が。俺がこいつに、この世界の事を教えてやりたい。
単純にそう思った。ナマエの世話を焼いてやろうと俺は時間の許す限りは傍に居てやった。この窮屈な檻の外も連れ出して色んな場所を教えてやった。魔法も、この世界の事も、いっぱい、いっぱい。
第二王子であるこの俺が直々に教えてやるんだ、これ程誉な事は無いだろうに。いつもと全く変わらず何も映さない表情に、少しだけ苛立った。何でそんなに表情が変わらないのだろうと考えたが、それはあいつの個性なんだろうと思う事にした。
いつか、俺があいつの事を笑わせてやろうと思った。
あいつには記憶が無かった。
今まで生きていた世界の事を、何も知らないと淡々と告げられた。記憶が戻ればこの場から去って帰るのだと、あの女は言った。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。何処にも行かないで欲しい。
いつ何処でこいつの記憶を思い出すきっかけになるか分からない。だったら、外の世界なんてこれ以上教えてやるもんか。永遠に記憶なんか思い出さなくて良い、そうすればずっとこいつはここに居るから。
女が帰るだとか言うから、妙に落ち着かず眠気が一向に来なかった。
水でも飲んで喉の渇きを潤そう。調理場に向かえば明かりが漏れていた。誰か居るのかと中を覗けば、兄貴とナマエの姿があった。
俺にはずっと無表情だったのに、兄貴に対しては少しながら笑みを浮かべていた。
何で?何で俺に見せない表情を浮かべている。何で兄貴に、
「そう卑下しなくても良い!レオナは他の使用人に心を開く事は無かった。」
「それは光栄です」
もしかして、ナマエは兄貴に言われて俺に近づいてきたんじゃないか?言葉巧みに俺の事を騙して、俺を扱いやすいように手綱でも握ろうとしてたのか?
やっぱり、兄貴なんじゃないか。兄貴ばっかり、皆、俺の事なんか見てくれない。
ナマエに当たり散らしてからは、あいつの今までの行動パターンを考えて鉢合わせるのを避けるようになった。
あいつなんて嫌いだ。兄貴の事を優先するあいつなんて。さっさと記憶でも戻ってどっかに行ってしまえば良い。
むしゃくしゃして頭が沸きそうだった。夜風に当たって少しでも気を紛らわそうとしたのがいけなかったのか、俺はナマエに見つかってしまった。
「レオナ様、帰りましょう」
「ほっとけ。また俺の事手懐けに来たのか」
屈んで、手を伸ばしてくる彼女の手を払ってそっぽを向いた。女は俺が戻るまで動くつもりは無いようで、俺の隣に腰かけて来た。なんだかむず痒くて、ちょっと嫌で、悲しくて。俺は1人分空けて座りなおした。
「わざと避けられるのは私も少し堪えますよ」
全く悲しそうな表情を浮かべていない、変わらず無の表情。
「…お前、あの日の夜。兄貴と話してただろ」
「ええ」
「あに、兄貴に言われて俺に近づいたんだろ」
「いいえ、それはありません。ファレナ様とお話する機会が設けられたのは、レオナ様と出会った後ですよ」
「なら、何で俺に構うんだ」
理由が分からなかった。俺に構う理由が。俺は第二王子で、跡継ぎになれない永遠に1番になる事の出来ない男なのに。
「そうですね、少し、貴方に似ている人が居るんです。」
「は?」
「だから放っておけなかった。貴方を見捨てたら、その人物さえも見捨ててしまう気がしたんです。」
何だそれ、たったそれだけの理由で、俺の事を構っていたのか。
「言って欲しかった言葉、して欲しかった事。沢山ありました。悲しい事にその人物は貰う事は出来ませんでしたが、…欲しかった物を貴方に与えれば、その人物さえも救われた気持ちになった。」
「何だ、それ」
重ね合わせたそいつを見ているだけで、俺の事なんか見てくれていなかった。酷い裏切りを受けた気分で、心が晴れる事は無い。むしろこいつを避けていた時以上に、もっともっと悲しくて、悔しくて、苦しい。
「勝手に他人と俺を重ねてんじゃねえよ」
再度差し伸べてくる手を強く払って、俺はこいつから少しでも離れようと踵を返した。
困惑、憎悪。色んな負の感情が入り混じる中、1つだけ気になる事があった。
この女、記憶が無いと言っていたのに、誰と重ね合わせているんだ?
「私自身、ですよ」
ナマエの表情が、ぐにゃりと何かを耐えるような表情を浮かべるもんで、なんだか俺はいたたまれない気持ちになった。
何も話す事が出来なかった。何を話して良いか分からなかった。
こいつを許した訳でも無かった。でも、そんな表情をさせるような何かの理由が、少し知りたくはなった。
俺はこいつの事が気になるのだ。異端で、異常で、変な女。知りたいという探求心が強くなっていく。
もう少し時間が経過して、俺の気持ちの整理がついたら腹を割って話し合おう。それまで、こいつが帰らないように何とかして命令しないと。
「レオナ様走って!」
「なっ!」
「おい獲物が逃げたぞ!追え!」
何だ、何が起こっている?ナマエの必死の叫びと、後ろから聞こえてくる怒号。俺は振り向いて後ろの奴を確認すれば、俺を狙ってるだろう盗賊が5人、こちらに向かって走っていた。
こんな経験初めてで、どうすれば良いか分からない。2人で逃げないと。俺の手を強く握る白い手を握り返して懸命に走るが、遂に追いつかれてしまった。
「レオナ様、このまま走ってお逃げ下さい。さあ早く」
「ま、待て!お前、ユミはどうするんだ!」
握られていた手は離れてしまい、俺はナマエの後ろに守られる。
こんな弱っちい草食動物、返り討ちに遭うだけなのに…こいつから滲み出る殺気が、やっぱり何処か異常であった。
「致し方ありません。訓練の成果お見せしますよ」
「駄目だ!お前みたいな草食動物が敵う訳、」
「これでも案外強いんですから。さあ走って!」
ナマエは男を投げた。それは軽い身のこなしで、彼女が相当強い事は瞬時に分かった。
使用人を早く連れてくるから、だから俺が戻るまで持ちこたえてくれ。死なないでくれ。何処にも、行かないでくれ。
「ナマエ!」
俺が見たのは、地に伏せて息絶えている3人の盗賊と、大量の血痕だけであった。
ナマエの姿は、何処にも無かった。