番外編A 夜の底で

夜中にぼんやりと目が覚めた。
理由は、すぐにはわからなかった。
ただ胸の奥に、まだ夢の名残みたいなざわつきが残っていて、呼吸が少しだけ浅い。

部屋は暗い。
カーテンの隙間から、街灯の光が細い線になって、床に落ちている。

……七海は、隣で眠っている。

そう思った瞬間、遅れて夢の断片がよみがえる。
輪郭のぼやけた景色。
何かから逃げて、誰かの名前を呼ぼうとして、でも声が出なくて。
そこで、完全に目が覚めた。
喉が少し渇いている。
心臓の音が、やけに大きく聞こえる。

体を起こそうとして――途中で動きを止めた。
七海が、もう目を覚ましていた。
暗闇の中でも、こちらを見ているのがわかる。

「……どうしました」

低くて、静かな声。

「……ちょっと、目が覚めただけです」

そう言おうとして、声が思ったよりも揺れた。
それだけでたぶん、察されてしまったのだと思う。

七海は何も聞かずに、こちらへ体を寄せてくる。
そしてそのまま、静かに抱き寄せた。
強くはない。
でも逃がす気のない、しっかりした腕。
私は、自然と七海の胸のあたりに収まる。
シャツ越しに伝わる体温と、ゆっくりした呼吸と胸の鼓動。
それを感じているうちに、さっきまでの夢の輪郭が少しずつ遠のいていく。

「……大丈夫です」

落ち着いた声。
私は無意識に、七海の服をきゅっと掴んだ。

「……夢、見ました」
「……そうですか」

それ以上は、何も聞かない。
ただその代わりに、腕の力が少しだけ強くなる。
包むみたいな抱き方。
しばらく、二人とも何も言わない。
近くで、七海の心臓の音を聞く。
その一定のリズムが、少しずつ私の呼吸を現実の速さに戻していく。
安心するのと同時に、この人に抱かれているという事実をはっきり意識してしまって、胸の奥が少しだけ落ち着かない。

「……もう、大丈夫です」

そう言うと七海は、私の頭に軽く顎を乗せた。

「……念のため、もう少しこのままでいましょう」
「……はい」

七海の手が、私の背中をゆっくり撫でる。
規則正しく、落ち着かせるみたいに。

「……こういうとき」

七海が、ぽつりと言う。

「……無理に話す必要はありません」

低くて、安心するような声。

「……落ち着くまで、こうしていればいいだけです」

私はもう一度、七海の服を掴む。
今度はさっきよりも、少しだけ力を込めて。
七海は何も言わずに、抱きしめる腕をもう少しだけ深く回した。

「……ここにいますから」

短く、はっきり。
その一言で、胸の奥に残っていた不安がようやくちゃんと静まる。
しばらくして、呼吸が整ったのを七海は気づいたらしい。

「……眠れそうですか」
「……たぶん」
「……なら、そのまま」

七海は私を抱いたまま、少しだけ体勢を整える。
私が目を覚まさないように気をつけるみたいなその動きが、妙に丁寧で少しだけくすぐったい。

「……何ですか」
「……慣れてるな、って」
「……仕事柄です」

短く、そう答える。
でもその腕は、仕事のときよりもずっと優しい。

「……寝ましょう」
「……はい」

私はそのまま、七海の胸に顔を埋めた。
伝わってくる体温と、心臓の音に意識を預けているうちに、さっきまでの夢の気配はもうどこかへ消えていた。
暗い部屋の中で私は、再び静かな眠りに落ちていった。

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