着替えも歯ブラシも、最低限のものはここに置いてある。
「泊まりに来る」というより、「寄る」に近い感覚。
その日も夕方に来て、簡単に食事を済ませて、リビングでそれぞれ静かに過ごしていた。
七海はソファで資料を読んでいる。
私はその隣で、特に意味もなくスマホを眺めている。
いつもの光景。
……ただ今日は、七海の様子が少しだけ違った。
言葉が少ない。
ページをめくる手も、いつもよりほんの少しだけ遅い。
「……疲れてます?」
そう聞くと、七海は一瞬だけ視線を上げて、すぐに本に戻した。
「……ええ。少しだけ」
その「少し」が、たぶん七海基準ではまあまあ大きい。
「……今日は、任務、長引いたんですよね」
「……想定よりは」
それ以上は、詳しく話さない。
私は少しだけ体の向きを変えて、七海の方を見る。
「……今日は、無理に何かしなくてもいいですよ」
「……何か、する予定でしたか」
「いえ。そういう意味じゃなくて」
少しだけ言葉を探してから、続ける。
「……ただ、のんびりしてればいいかな、って」
七海は、しばらく黙っていた。
それから、ふっと息を吐く。
「……それは、助かります」
本を閉じて、テーブルの上に置く。
そのまま、ソファの背にもたれかかって目を閉じた。
……珍しい。
私は、少しだけ迷ってから距離を詰めた。
肩が、軽く触れる。
触れたはずなのに、思ったより体温がはっきり伝わってくる。
それだけで、胸の奥が少しだけ静かになる。
「……眠るなら、ベッド行きます?」
「……いえ」
七海は、目を閉じたまま低く言う。
「……少しだけ、このままで」
そう言ってから、ほんの一瞬間を置く。
「……あなたがいるなら」
その一言があまりにも自然で、だからこそ、胸の奥にゆっくりと沈んでいく。
私は何も言わずにそのまま、七海の腕に軽く寄りかかる。
七海の体が、ほんの少しだけこちらに傾いた。
完全に体重を預けるほどではない。
でも、預けてもいいと判断している重さ。
その微妙な距離が、かえってくすぐったいほどに親密だった。
彼の体温が、じわじわと伝わってくる。
触れているのは肩だけなのに、意識はそこに全部持っていかれる。
「……今日は、珍しいですね」
そう言うと七海は、目を閉じたまま、小さく息を吐いた。
「……自覚はあります」
「……甘えたい気分ですか」
「……そういう言い方をされると、少し語弊がありますが」
言いにくいのか、少しの間が空く。
「……否定はしません」
思わず、少しだけ笑ってしまう。
「じゃあ、どうぞ」
そう言って、肩に回していた手で七海の背中を軽く支える。
七海は、少しだけ迷うような間を置いてから、今度はもう少しはっきりと体を預けてきた。
「……」
……重い。
でも、不思議と嫌じゃない。
それどころか、胸の奥にゆっくりと満ちてくるものがある。
この人が今、私に体重を預けているという事実だけで。
信頼されているというより、ここを選ばれているという感覚に近かった。
「……あなたは」
七海が、ぽつりと言う。
「……こういうとき、何も聞かないんですね」
「聞いてほしかったですか」
「……いえ」
柔らかな沈黙が落ちて。
「……今は、このままがちょうどいいです」
それきり、七海は何も言わなくなる。
私はただ、そこにいる。
肩を貸して背中を支えて、時々七海の髪に指が触れるくらい。
その髪の感触が思っていたより柔らかいことに今さら気づいて、少しだけくすぐったい。
しばらくして、七海が低く息を吐いた。
「……少し、楽になりました」
「それはよかったです」
少し間を置いてから、七海が続ける。
「……あなたがいると、余計なことを考えずに済みます」
「……それ、褒めてます?」
「……ええ。たぶん」
ほんの一瞬だけ、口元が緩むのが見えた。
「……今日は、このまま休みましょう」
「はい」
七海は名残惜しそうに、ほんの少しだけ体を起こす。
でも、立ち上がる前に一度だけ、私の頭に軽く手を置いた。
その手の重さが、さっきまで肩にあった重さと同じ温度をしている。
「……来てくれて、助かりました」
相変わらず淡々とした言い方なのに、
その声は、どこか少しだけ柔らかい。
「……どういたしまして。また、泊まりに来ますね」
「……ええ。歓迎します」
その言葉を聞いたとき、なぜか胸の奥が少しだけ静かに鳴った。
それはもう、行き先を告げる場所に戻ってくる人間へ向けられる言葉の響きだった。