番外編C 二月の温度

二月の風は、容赦がない。

高専の敷地を出た瞬間、コートの隙間から冷気が入り込んできて、思わず肩をすくめた。
吐く息が白い。

手提げの小さな紙袋を、無意識に持ち直す。
中身が崩れないように、少しだけ丁寧に。

七海は、いつも通り、私の半歩前を歩いている。
歩幅が一定で、背中がまっすぐで、無駄な動きがない。
その背中を見ながら歩く時間が、わりと好きだった。

「……どうしました」

ふいに振り返られる。

「いえ」

少しだけ迷ってから、紙袋を差し出す。

「これ」
「……?」
「今日、バレンタインなので」

七海が、ほんの一瞬だけ目を瞬かせた。
意外そうな顔。
それから、ゆっくり袋を受け取る。

「……お気遣いなく、と言うべきでしょうか」
「気にしないでください。私が用意したくてしただけなので」
「……そうですか」

そのまま、七海は中を確認する。
上品な大きさの箱に、シンプルなロゴが金色に光っている。

「随分、きちんとしたものですね」
「こういうときくらい、ちゃんとしたものを贈りたくて」

照れくさくて、少しだけ視線を逸らす。

「お酒のお供にもなるらしいです。甘すぎないって聞きました」

七海の動きが、止まった。
箱を見て、それから私を見る。

「……あなたは」

七海が、ゆっくり息を吐く。

「本当に、そういうところが、抜かりない」

責めるみたいな言い方なのに、声はやわらかい。

「褒めてます?」
「ええ。かなり」

珍しい。
はっきり断言された。
七海は箱を紙袋の中にしまう。
やけに大事そうな仕草で。

「……今夜、開けます」
「はい」
「一緒に、どうですか」

歩きながら、さらっと言う。
いつもの調子で。

「いいんですか?」
「あなたが選んだんでしょう」

ふ、と七海が笑う。

「せっかくなら、あなたと一緒に食べたい」

耳の先が、ほんの少しだけ赤くなっている。
たぶん、寒さのせいだけじゃない。

「じゃあ、お邪魔しますね」
「ええ」

そのあと、何気ない顔で、七海が私の手に触れた。
そのまま、指を絡めて握る。
前より、少しだけ強い力。

「……ありがとうございます」

低い声。

「こういう行事は、正直、得意ではありませんが……」

一拍置いて。

「あなたとなら、悪くない」

それだけ言って、前を見る。
手は離れない。
冬の空気は冷たいのに、つないだ指先だけが、やけにあたたかかった。



七海の部屋に入った瞬間、外気とは違うやわらかな温度に包まれて、肩の力が抜けた。

コートを脱いでソファに置くと、七海は無言でキッチンに立ち、グラスを二つ出す。
氷が落ちる乾いた音。
瓶を傾けると、琥珀色の液体がゆっくり底に溜まっていった。

「すみません、気を遣わせてしまって」
「いえ」

短い返事。
差し出されたグラスを受け取ると、指先がほんの一瞬触れた。
それだけで、やけにあたたかい。

テーブルの上には、さっき渡したチョコレートの箱。
七海が包装をほどき、紙を丁寧に畳んで脇へ寄せる。
箱を開くと、小さなショコラが整然と並んでいた。

七海はひとつ口に入れ、ゆっくり味わってからウイスキーを含む。
氷が、からん、と鳴った。

「どうですか?」
「……合いますね」

それだけ言って、箱を私の方へ軽く寄せる。
促されて、自分でひとつ取った。
ほろ苦い甘さが溶けて、すぐあとにウイスキーの熱が追いかけてくる。
喉の奥が、じんわりあたたかい。

気づけば、七海が隣に座っていた。
肩が触れる。
ただそれだけの距離なのに、不思議なくらい落ち着く。

同じ箱からチョコを取り、同じペースでグラスを傾ける。
言葉はほとんどない。
時計の針の音と、氷の溶ける気配だけが、静かに夜を刻んでいた。

「あなたが選ぶものは、大体間違いがありませんね」

事実を述べるみたいな口調。
それなのに、胸の奥にやわらかく沁みる。

「……よかった」

小さく笑って返すと、七海はそれ以上何も言わなかった。
代わりに、そっと手が触れる。
指が絡む。
強くも弱くもない、ちょうどいい力。
体が少しだけ傾いて、肩が触れたままになる。
そのまま、しばらく動かない。
七海の体温が、シャツ越しにじんわり伝わってくる。

ふいに、頭にぽん、と手が乗った。
撫でるでもなく、押さえるでもなく。
そこにいることを確かめるみたいな、静かな手つき。

「来月、時間をください。埋め合わせをしますから」
「……はい」

テーブルの上には、半分になったチョコレートと、少し減ったウイスキー。
七海の体温が、肩越しにじんわり伝わってくる。
私はそのまま、そっと体重を預けた。

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