溺れるほどのやさしさで
その日の高専の寮は、夜も更けると不思議なくらい静かになった。
日中は先輩たちも交えて賑やかな笑い声が響いていたのに、年度の区切りで授業も一段落し、任務やそれぞれの予定で人は少なくなり、二人きりになると廊下の気配さえ遠くなった感覚があった。
窓の外では、山の風が木の葉を揺らしている。擦れ合う枝の音が、夜の奥でかすかに鳴っていた。
虎杖悠仁の部屋の中には、柔らかな明かりだけが落ちていた。ローテーブルの上に、綺麗にラッピングされた小さな箱がひとつ置かれている。なまえはその前で、少しだけ息を整えた。落ち着いているつもりなのに、胸の奥がほんの少しだけ騒がしい。
ベッドの上に腰掛けていた虎杖が、箱を見てからなまえに目を向けた。
「……これ、俺に?」
少し照れたように笑う。なまえは頷いた。
「うん。皆でいるときは渡せなかったから」
言葉はそれだけだったけれど、虎杖の顔が柔らかく緩む。
包装をゆっくりほどき、箱を開ける。中に入っていたのは、細いブレスレットだった。装飾はほとんどない。控えめな金属の光だけが、静かに手元で揺れている。
虎杖はそれを手に取り、しばらく眺めてから手首に当ててみた。袖口から覗くと、思っていた以上に自然に馴染む。
「……カッコいい」
声が、少し低くなる。なまえはほっと息を吐いた。
「似合うと思って」
虎杖はもう一度手首を眺める。それから顔を上げて、なまえを見る。
「ありがとう。……すげえ嬉しい」
短い言葉だったけれど、さっきまでよりずっと静かな声だった。そのまま、しばらく会話が途切れる。部屋の空気は穏やかで、沈黙もどこか心地よかった。
虎杖はまだブレスレットを指先で触りながら、何か考えているようだった。やがて思い出したように口を開く。
「……あ、でもさ。プレゼント、もう一個だけ欲しいものある」
なまえは不思議そうに首を傾げた。
「なに?」
虎杖は一瞬だけ言葉を探すように視線を泳がせた。それから、少し照れた顔で言う。
「……みょうじを、思いきり抱きしめたい」
なまえは驚くより先に、小さく笑った。
「そんなお願い?」
虎杖が肩をすくめる。
「普段遠慮してるんだぜ、これでも。みょうじに嫌われたらやだなって思ってさ」
その言い方が妙に正直で、なまえの胸が少し温かくなる。
なまえはゆっくりと虎杖の前に向き直った。距離が自然と近くなる。
「……いいよ?」
そう言うと、虎杖は一瞬だけ目を瞬かせた。次の瞬間、腕が伸びる。なまえの体が引き寄せられて、抱きしめられる。強すぎないのに、しっかりと包み込むような腕の力だった。
虎杖はそのままなまえの肩に顔を埋めて、しばらく動かなかった。なまえは少しだけ驚いたあと、静かに息を吐く。そして、虎杖の背中に腕を回した。指先でゆっくり撫でる。その途端、虎杖の呼吸が緩んだ。
「……みょうじ」
「うん?」
「……めちゃくちゃ癒される」
なまえは小さく笑った。それから、虎杖の髪にそっと触れる。
「……私も」
虎杖は少し顔の位置を変えた。なまえの髪に鼻先を埋めて、少し息を吸う。
「……みょうじ、いい匂いする」
虎杖が鼻を動かすたびに、なまえもひくりと体が反応してしまう。
「……そう?」
「なんつーか、甘い香り? みょうじのそばにいるといつもそうなんだよな」
シャンプーか何かかな、と香りの元を探るように鼻先をくっつけてくる虎杖に、なまえは笑う。くすぐったくなって身を捩ると、虎杖は調子に乗ったようにさらに顔を近づけてきた。笑いながら抱き合っているうちに、お互いの顔の近さに気づいて、虎杖は一瞬言葉を失ったように黙った。言葉がないまま、二人はしばらく見つめ合う。
虎杖は少しだけ迷って、それから静かに言った。
「……キスしていい?」
熱のこもった目で、まっすぐ見据えられる。なまえは顔が熱くなるのを感じながら、何回かゆっくり瞬きをした。そして、小さく頷く。
「うん」
その言葉を聞いた瞬間、虎杖の瞳の奥が少し揺れた。顔を傾けられて、唇を重ねられる。軽く触れられるだけだったが、すぐ離れない。なまえの指が、虎杖の制服をそっと掴む。その小さな仕草だけで、虎杖の呼吸が少し深くなる。
一度離れられたが、またゆっくりと重ねられた。なまえは抵抗しない。むしろ目を閉じたまま、虎杖の制服を掴む手を強くする。その指先に、虎杖の体温が伝わってくる。
何回か唇を食んだあとに、虎杖が小さく息を吐いた。
「……なんか、離したくなくなる」
少し困ったような、欲のこもった声だった。なまえは少しだけ目を細める。それから、今度は自分から虎杖に近づいた。静かに唇を重ねる。さっきより優しく、長く。
唇の柔らかさを夢中になって味わっていると、ぐっと後頭部を引き寄せられた。息が苦しくなるのも構わずに唇を貪られる。しばらくの間そうされて、なまえは息ができなくなって、虎杖に寄りかかる。そのまましっかりと抱きとめられた。
離れたあと、なまえは何も言わず虎杖の胸の中で呼吸を整える。虎杖はしばらく黙っていた。それから小さく笑う。
「……みょうじ」
「ん?」
「俺、みょうじのことすげえ好き」
なまえは頷く。
「……私も、大好き」
そのままもう一度虎杖を抱きしめる。虎杖も迷わず腕を回した。今度はさっきより自然な、深い抱擁だった。
「誕生日おめでとう、虎杖」
二人はしばらく、そのまま動かなかった。夜の静けさの中で、互いの体温だけが確かなものとして行き交っていた。