9.穏やかな夜の中で
夜の高専の寮は、ひどく静かだった。
廊下の明かりは落とされ、遠くで誰かのシャワーの音と、窓の外の虫の声だけが、かすかに響いている。
透子が虎杖の部屋の前に立ったのは、消灯前の、少しだけ気持ちが緩む時間だった。
少し迷ってからノックをすると、すぐにドアが開く。
「……時雨?」
部屋着姿の虎杖が、少し驚いた顔でこちらを見る。
「……少し、話したくて」
「……あ、うん。どうぞ」
中に通されると、部屋はいつも通りの虎杖の部屋だった。
布団と机と、少し散らかった教科書。
透子はベッドの端に腰掛ける。
その瞬間、虎杖の動きが、ほんの一拍止まった。
透子が部屋着のままだったからだ。
薄いシャツに、室内用のパンツ。
制服よりもずっと無防備な格好に、虎杖はあからさまに視線を逸らし、耳まで赤くなっていた。
その様子に、透子の胸の奥が、少しだけ温かくなる。
「……ごめん、急に来て」
「……いや、全然……」
少しだけ、気まずい沈黙。
窓の外で、虫の声が鳴いている。
透子はしばらく指先を見つめてから、ぽつりと口を開いた。
「……最近ね。虎杖といると、前より……安心する」
虎杖は、何も言わずに聞いている。
「……前は、誰かと一緒にいても、あんまりそう思ったことなかった。……虎杖が、初めてだった」
少しだけ、間を置いてから、続ける。
「……虎杖が、いなくなったって聞いたとき……すごく、怖かった」
声が、わずかに揺れる。
「……もう、ああいうの……嫌」
透子は、ゆっくりと顔を上げて、虎杖を見る。
「……私ね」
一度、小さく息を吸ってから。
「……虎杖のこと、好き」
その言葉は、静かだけれど、はっきりしていた。
「……大事で……失いたくなくて……いなくなったら、嫌だって……思う」
それだけを言って、少し視線を伏せる。
部屋の中が、ひどく静かになる。
心臓の音が、やけに大きい。
虎杖は、しばらく何も言えずにいたが、やがて、絞り出すように口を開いた。
「……それ、さ」
一度、息を吸って。
「……俺も……」
そして、堪えきれなくなったみたいに。
「……俺も、時雨のこと好き!!」
声が少し裏返る。
「……大事で……失いたくなくて……!」
言い切った瞬間、はっとして、顔を押さえる。
「……っ……言った……」
耳まで真っ赤なまま、視線を逸らす。
その不器用さに、透子は一瞬きょとんとしてから、少しだけ、安心したように笑った。
「……よかった」
その一言で、部屋の中に、ふっと静けさが戻る。
さっきまで張りつめていた空気が、ゆっくりほどけて、代わりに、どこかあたたかい沈黙が満ちていく。
二人は、しばらく何も言わずにいた。
ただ、同じ部屋で、同じ空気を吸っていることを、確かめ合うみたいに。
やがて、虎杖が、少しだけ照れたまま、でもさっきよりずっと落ち着いた声で言う。
「……なあ、時雨」
「……うん?」
「……俺さ」
少しだけ、言葉を探す間。
「……時雨と……恋人になりたい」
今度の声は、さっきみたいに勢い任せじゃなくて、ちゃんと、気持ちを大事に置くみたいな言い方だった。
透子は、少しだけ目を瞬かせてから、ゆっくりと頷く。
「……うん」
短い返事だったけれど、それで十分だった。
部屋の中には、また静けさが戻る。
でもそれは、さっきまでの張りつめた沈黙ではなく、どこかやわらかく、あたたかい静けさだった。
まだ何も触れていないし、距離もほとんど変わっていない。
それでも確かに、何かは変わった。
この人は、ここにいる。
今も、同じ部屋で、同じ空気を吸っている。
その事実だけで、世界の輪郭が少しだけ確かなものに戻る。
夜の高専は、相変わらず静かだった。
窓の外では、虫の声が途切れ途切れに響いている。
明日も、きっと、任務と訓練と、変わらない日常が続く。
それでもこの夜は、時雨透子にとって、「誰かと一緒にいる未来」を、初めて現実のものとして思い描けた夜になった。