10.特別な距離
告白から、一晩が経った。
世界が変わったような気がしていたのに、実際には何も変わっていない。
あるいは、正確に言うなら――何もできなくなった。
中庭のベンチに座りながら、透子は、少し離れた場所に立っている虎杖を見た。
彼は、理由もなく腕を組み、ほどき、また組み直し、落ち着かない様子で視線を宙に漂わせている。
(……どうして、そんなに遠くにいるんだろう)
付き合う前のほうが、ずっと自然に隣にいた気がする。
あの頃の距離は、何の意識もなく、ただそこにあった。
今は違う。
たった数歩の距離が、妙に遠い。
沈黙が、二人の間に落ちていた。
風が、木の葉を揺らす音だけが聞こえる。
「……虎杖」
名前を呼ぶと、彼は過剰なほどの反応で振り向いた。
「……っ、うん?」
透子は、その声の硬さに、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「そんなに緊張しなくても……」
「……してない」
即答だった。
けれど、耳が赤い。
透子は、小さく息を吐く。
「……してる」
虎杖は、言い返そうとして、結局、言葉を探すみたいに視線を落とした。
「……なんか……」
頭の後ろを掻きながら、ぽつりと言う。
「……どのくらい、近づいていいのか、わからなくて」
透子はその言葉を、静かに受け取った。
「昨日までと同じでいいって、思ってるんだけど……」
「……」
「……昨日までより、大事になったから……」
最後の言葉は、ほとんど風に紛れた。
透子は、しばらく黙ってから、ゆっくりと立ち上がる。
そして、彼のほうへ、一歩、歩いた。
虎杖の肩が、わずかに跳ねる。
「……このくらいは?」
距離は、すぐに詰まった。
視線の高さが揃い、互いの息遣いが、かすかに伝わるほどに。
「……っ」
虎杖は、動けない。
「……近すぎる?」
「……ち、近い……」
「……嫌?」
一瞬の沈黙のあと、彼は、必死に首を振った。
「……嫌じゃない」
声が、少し裏返っている。
透子は、少しだけ微笑んで、そっと虎杖の袖をつまんだ。
「……これくらいは、いい?」
虎杖は、言葉の代わりに、小さく頷く。
その仕草が、あまりにも真剣で、透子の胸が、わずかに温かくなる。
「……手」
虎杖が、意を決したように言う。
「……繋いでも、いい?」
「……うん」
返事は、短かった。
虎杖は、壊れ物に触れるみたいに、ゆっくりと指先を伸ばす。
触れた瞬間、二人とも、ほんのわずかに息を詰めた。
それから、ぎこちなく、指が絡む。
ただ、それだけ。
それだけなのに、心臓の音が、やけに大きい。
「……俺たち……」
虎杖が、ぽつりと言う。
「……付き合ってるんだよな……」
「……うん」
「……なんか……実感が、すごい……」
透子は、小さく笑った。
「……私も」
それから、ほんの少しだけ、彼のほうへ体を寄せる。
肩と肩が、触れる。
虎杖は、息を止めた。
「……これ以上は、今日は、無理……」
「……?」
「……心臓が、もたない……」
透子は、少し驚いたように瞬きをしてから、静かに微笑んだ。
「……虎杖、やさしいね」
「言うな……」
その声は、照れと、誠実さと、少しの戸惑いが混じっていた。
こうして二人は、手を繋ぎ、肩を寄せるところまでで、動けなくなった。
世界は、確かに少し変わった。
けれどそれは、劇的な変化ではなく、息をするたびに、少しずつ実感が染み込んでくるような変化だった。
恋人になったという事実は、まだ、二人の中で、静かに育ち始めたばかりだった。