12.温もりを分け合って
任務から戻ったのは、もう空気がすっかり夜の温度に落ち着いた頃だった。
寮の廊下は静かで、遠くの自販機の音だけが、かすかに響いている。
透子は靴を脱ぎながら、ふと立ち止まった。
「……虎杖」
呼ばれて振り返った虎杖は、いつもと変わらない顔をしていた。
「ん? なに?」
その手に、赤いものが滲んでいるのが見えた。
ほんのわずか、乾きかけた血の色。
「……手」
虎杖は自分の手のひらを見て、少しだけ目を丸くする。
「あ、これ? さっきちょっと引っかいただけ。全然大したことないって」
そう言って、いつもの調子で笑う。
でも透子は、そのまま何も言わずに虎杖の腕を取った。
「……来て」
有無を言わせない、静かな声だった。
共用スペースのテーブルに座らせると、透子は救急箱を取りに行って戻ってきた。
虎杖は少し居心地悪そうに、椅子に腰かけたまま様子を見ている。
「ほんと、こんなの……」
「動かないで」
ぴしり、と優しいけれど譲らない声。
透子は虎杖の手を取り、消毒液を含ませたガーゼでそっと拭く。
浅い傷だったけれど、細かく裂けていて、ガーゼがじんわりと赤くなっていく。
「……ちょっと、しみるかも」
「へーきへーき……っ、あ、ちょっとだけしみる」
思わず顔をしかめた虎杖を見て、透子はほんの少しだけ眉を下げた。
「だから言ったのに」
責める口調ではない。ただ、心配しているのがわかる声だった。
透子は黙々と手当てを続ける。
距離が近い。虎杖はそのことを意識してしまって、視線のやり場に困る。
「……時雨、近い」
ぽつりと言うと、透子は一瞬だけ手を止めた。
「ごめん……でも、もう少しだけ」
そう言って、また包帯を巻き始める。
指先が触れるたび、虎杖は変に意識してしまって、じっと天井を見つめるしかなかった。
ようやく包帯を巻き終えたとき、透子は小さく息をついた。
「……これで大丈夫。しばらく、濡らさないで」
「おう。ありがと」
そのまま手を引こうとした虎杖は、ふと気づいた。
透子の指先が、やけに冷たい。
「……時雨」
今度は虎杖の方から、そっとその手を取った。
「……手、冷えてる」
「え? そうかな……」
自覚がないのか、少し首を傾げる透子に、虎杖は何も言わずに両手で包み込む。
「任務のあとだし。冷えるだろ」
ごつごつした自分の手で、透子の指先を包む。
透子は、少しだけ目を見開いて、それから小さく瞬きをした。
「……ありがとう」
「……いや」
今度は、透子の方が少しだけ照れたみたいに視線を落とす。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
ただ、手の温度だけが、静かに行き来していた。
「……無茶しないで」
透子が、小さな声で言う。
虎杖は一瞬だけ目を瞬いて、それから少し困ったように笑った。
「……なるべく、な。でもさ」
そう言って、まだ離していなかった透子の手を、ほんの少しだけ握り直す。
「時雨の方こそ、無理すんなよ」
「……私は、大丈夫」
「その大丈夫が信用ならないんだって」
責めるでもなく、呆れるでもなく、ただ静かな声だった。
透子は一瞬だけ言葉に詰まって、それから、ほんの少しだけ目を細めた。
「……じゃあ、お互い様、だね」
「……だな」
そのとき、後ろから声がした。
「……で、どっちが怪我人なんだ?」
振り返ると、伏黒が呆れた顔で立っていた。
「いや、俺だけど!?」
「どう見ても、二人で手繋いでるだけだろ」
透子は、はっとして手を引っ込める。
虎杖も、少し遅れて慌てて手を離した。
「ち、違う! 手当してもらってただけで……!」
「……はいはい」
伏黒は興味なさそうに肩をすくめて、そのまま廊下の奥へ行ってしまった。
残された二人は、少し気まずそうに顔を見合わせて、そして、同時に小さく笑った。
「……ありがとう、時雨」
「……うん」
言葉はそれだけだったけれど。
その夜、虎杖の手のひらよりも、透子の指先よりも、二人の間の空気の方が、ずっとあたたかかった。