13-1.夜に溶ける(前編)
共有スペースには、任務帰り特有のだらけた空気がゆるく淀んだまま漂っていた。
ソファには脱ぎ捨てられたジャケットが無造作に投げ出され、テーブルの上では開きっぱなしのスナック菓子の袋が口を広げている。
底に残った塩の粉と砕けた欠片だけが銀色の内側に張り付いていて、ついさっきまでそこに人が集まっていた名残だけが、頼りなく残っていた。
「ねぇ、もう何もなくない?」
袋の中を覗き込んだ釘崎が、あからさまに顔をしかめる。
「さっきまであっただろ」
「虎杖が食べたんでしょ」
「俺だけじゃねーって!」
反論はしたものの、声に勢いはない。疲労がそのまま滲んでいる。
伏黒が無言で冷蔵庫を開けると、白い光が床へ流れ落ち、部屋の影を淡く押し広げた。
「飲み物も、ほぼ空だな」
淡々とした報告に、全員が「あー……」と同時に力の抜けた声を漏らす。
その空気を受けて、虎杖がゆっくり立ち上がった。
大きく背伸びをしてから肩を回し、いつもの調子で言う。
「じゃあ、コンビニ行ってくるわ。買い足してくる」
頼まれたわけでもないのに、もう上着を手に取っている。
その自然すぎる動きを、透子はぼんやりと目で追った。
――この人は、いつもそうだ。
誰かが困るより先に、当たり前みたいに動く。
恩着せがましさも、気負いもなく、ただ「そうするのが普通」と言わんばかりに。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
気づけば、自分も立ち上がっていた。
「……私も行く」
声は驚くほど自然に出た。
振り返った虎杖が、少し目を丸くする。
「え?」
「一人だと大変でしょ」
言いながら、透子も上着を羽織る。
「……手伝う」
短いその言葉に、理由はいらなかった。
虎杖は一瞬だけ透子を見つめ、それからふっと柔らかく笑う。
「……じゃ、一緒に行こ」
その声音に混じったわずかな嬉しさが、透子の胸をそっと緩ませた。
背後から釘崎の「はいはい、ごちそーさま」という茶化す声が飛んできたが、二人とも振り返らないまま外へ出る。
夜気が、すっと肌を撫でた。
昼間の熱が抜け落ちた空気は薄く澄み、遠くで虫の声が揺れている。
高専の建物は灯りだけを点々と残して静まり返り、昼間とはまるで別の場所みたいだった。
並んで歩く。
コンクリートを踏む足音が同じ間隔で重なり、言葉がなくても、不思議と気まずさはない。
肩が触れそうで触れない距離を保ったまま、歩幅だけが自然に揃っていく。
「……静かだね」
透子の声は、夜に溶けるみたいに小さい。
「な。昼間と別の場所みたいだよな」
虎杖が頷く。
透子は少し考えてから、そっと言った。
「……遠足の帰り、みたい」
「あー、それわかる。終わったのにテンションだけ残ってる感じな」
顔を見合わせて笑う。
その笑い声はすぐ夜に吸い込まれた。
やがてコンビニの白い灯りが近づく。
自動ドアが開くと、冷たい空気と蛍光灯の光が一気に流れ出し、夜の感覚が途切れた。
カゴを取り、並んで店内を回る。
虎杖が菓子やアイスを入れていく横で、透子は冷蔵ケースの前に立ち止まった。
透明な扉の向こうに並ぶペットボトルをしばらく見つめてから、一本を選び取る。
それを、そっと虎杖のカゴに入れた。
「……?」
虎杖が覗き込む。
透子は視線を逸らしたまま、小さく言う。
「これ、好きだったよね」
少し間を置いて、
「……私も、一回飲んでみたくて」
照れたみたいな声音だった。
虎杖の動きが止まる。
「え、覚えてたの?」
「……うん」
虎杖はボトルと透子を交互に見て、それから耳を赤くしながら笑った。
「じゃあ、半分こな」
何気ない一言なのに、胸の奥がじんわり熱を持つ。
ただ同じ飲み物を分け合うだけなのに、どうしてこんなにも特別に感じるんだろう、と透子は思った。
レジの横まで進んだとき、銀色の保温ケースがふいに視界へ入った。
透明なガラスの向こうで、白い湯気がゆらゆらと揺れている。
中華まん特有の、ほんのり甘くてやわらかい匂いが、あたたかな空気と一緒に漂ってきた。
その瞬間、透子の足が、ぴたりと止まる。
無意識だった。
吸い寄せられるみたいにケースへ近づき、ガラス越しにそっと中を覗き込む。
並んだ丸い包みを見つめる横顔は、いつになく素直で、ほんの少しだけ目が輝いていた。
その変化に、虎杖が気づく。
「……食う?」
透子ははっとして顔を上げた。
少しだけ迷ってから、視線を落とし、控えめな声で言う。
「……買い食いって、したことなくて」
「え、マジ?」
「うん。なんか……そういうの、あんまり」
言いながら、自分でも妙に可笑しくなったのか、小さく笑った。
その笑い方が、どこか照れくさそうで、子どもみたいで。
虎杖は一瞬だけ黙り、それから何でもない顔をして店員のほうへ向き直る。
「肉まん一つください」
「……え」
驚いて透子が見上げると、
「一緒に食お」
当たり前みたいにそう言って、虎杖はにっと笑った。
まるでそれが普通だとでも言うような、気負いのない顔だった。
会計を済ませて外に出る。
袋を開けると、中からふわりと蒸気が立ちのぼり、夜の空気へ溶けていく。
透子がそっと中華まんを指先で割ると、白く蒸しあがった皮がやわらかく裂けて、ほかほかとした湯気が広がった。
「あつ……」
「大丈夫?」
「うん……あったかい」
その声音が、もう少しで笑い出しそうなくらい嬉しそうで。
半分を虎杖に渡し、自分も口に運ぶ。
ふわふわの生地の甘みと、餡の塩気がゆっくり舌の上に広がって、じんわりと身体の奥まで温まっていく。
透子の目が、ほんの少し見開かれた。
「……おいしい」
驚くほど素直な感想だった。
虎杖が得意げに笑う。
「だろ? コンビニ最強なんだって」
「……知らなかった」
小さく笑う横顔は、どこまでも無防備で。
その表情を見た瞬間、虎杖の胸の奥が、ぎゅっと音を立てて締めつけられた。
袋の中で、ペットボトル同士が小さくぶつかり合う。
かつ、と乾いた音が、静かな夜道に響いた。
虎杖の持つ袋のほうが少し重そうで、透子は無意識にそちらを覗き込む。
「持つよ」
そう言いかけた瞬間、
「いいって。これくらい」
軽く手をあげられ、先に笑われた。
あまりにも自然に言われてしまうと、これ以上は何も言えなくなる。
けれど、その横顔を見ていると、胸の奥がくすぐったくて、どうしようもなく落ち着かない。
透子は食べ終えた包み紙を丁寧に小さく畳み、コンビニ袋の中へそっと押し込んだ。
その何でもない仕草が、なぜか虎杖の目にやけに残る。
夜の高専へ続く坂道は、昼間よりも長く感じられた。
もう話題は尽きているはずなのに、足だけがゆっくりと進む。
帰り着いてしまうのが、少し惜しい。
歩いているうちに、袖がまた触れた。
今度は、どちらも避けなかった。
触れたまま、数歩。
ほんの数センチの距離なのに、やけに意識してしまう。
心臓の音が近い。
自分のものなのか、隣のものなのか、もう判別がつかない。
透子は視線を落とす。
街灯の下、アスファルトに伸びた二人分の影が、ひとつに溶け合っている。
それを見た瞬間、胸の奥がきゅっと詰まった。
言葉は出てこない。
ただ、隣にいる体温だけが、確かだった。
――もう少しだけ、このまま歩いていたい。
そんな願いを声に出せるはずもなく。
二人は何事もない顔をしたまま、同じ歩幅で、静かな坂道をゆっくりと上っていった。