13-2.夜に溶ける(後編)
コンビニの明かりが背後で小さくなっていくにつれて、周囲の色はゆっくりと夜に沈んでいった。
さっきまで蛍光灯に照らされて白く浮いていた景色が、今は淡い藍色の膜に包まれている。
舗装された道の端を夜風がさらさらと撫で、どこかで虫が鳴き、少し遅れて別の場所からも応える。
その合間を縫うように、二人分の足音だけが、規則正しく重なっていた。
虎杖は片手に袋を提げて歩いていたが、透子の側に当たらないように、無意識のうちに持ち手を反対の手へ持ち替える。
中でペットボトルがぶつかり合い、小さく乾いた音が鳴った。
透子は、その半歩後ろを歩いている。
来るときより、明らかに速度が遅い。
どちらが合わせたわけでもないのに、自然と歩幅が揃って、気づけば同じリズムで進んでいた。
帰り道が、やけに長く感じる。
袖が、ふいに触れた。
薄い布越しに伝わる体温に、反射的に離れかけて――けれど、そのままやめる。
触れたまま、数歩。
何事もない顔で歩いているはずなのに、心臓だけがやけにうるさい。
透子は視線を落とした。
街灯に照らされて伸びた二人分の影が、アスファルトの上で並び、ときどき重なり合う。
そのたびに胸の奥がかすかにざわめいて、息が浅くなる。
「……寒くない?」
虎杖が、さりげない調子で尋ねた。
「……うん、平気」
答えながら、喉が少しだけ乾いていることに気づく。
声が思ったよりも小さく、夜の中にすぐ溶けていった。
沈黙が戻る。
けれどそれは気まずさではなく、ただ互いの呼吸だけが近くにある、静かな時間だった。
坂の途中で、ふいに虎杖の足が止まる。
透子もつられて立ち止まった。
数歩先まで進んでいた影が、同時に止まる。
「……虎杖?」
呼びかけても、すぐには振り向かない。
袋を持った手にわずかに力が入り、喉が上下する。
何か言おうとして、言葉が見つからない、そんな顔をしていた。
それを見た瞬間、透子の胸の奥に、ひどくやわらかい感情が広がる。
――ああ、この人も、同じなんだ。
同じように戸惑って、同じようにどうしていいかわからなくて。
そのことが、たまらなく愛おしい。
透子は、ほんの少しだけ距離を詰めた。
肩が触れるほどの位置まで。
それだけで、虎杖の呼吸がわずかに乱れるのがわかった。
袋が地面に置かれる。
軽い音が、静かな夜に落ちた。
空いた手が、ゆっくり持ち上がる。
触れていいのか確かめるみたいに一瞬だけ宙で止まって、それから、透子の頬の横の髪にそっと触れた。
指先が、わずかに震えている。
「……ごめん」
その声があまりにも必死で、透子は笑いそうになった。
でも笑えなかった。
胸がいっぱいで、息をするのも難しい。
次の瞬間、虎杖の顔が近づく。
驚くほど、ゆっくり。
逃げようと思えば、いくらでも逃げられるくらい、ゆっくりと。
透子は、そっと目を閉じた。
唇が触れる。
やわらかくて、あたたかくて、ほんの少し乾いていて。
ただ重なっているだけなのに、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
指先が無意識に虎杖の制服を掴んでいた。
離れたら、この体温ごと消えてしまいそうで。
キスは浅く、ぎこちなく、それでもひどく真剣だった。
ほんの数秒のはずなのに、時間がやけに長く伸びる。
互いの呼吸が混ざり合い、鼓動だけがはっきりと耳に届く。
やがて唇が離れたとき、二人とも同時に小さく息を吐いた。
しばらく、どちらも何も言えない。
虎杖の耳が赤い。
透子の頬も、熱を持ったままだ。
「……帰ろ」
かすれた声で、虎杖が言う。
「……うん」
袋を持ち直し、また歩き出す。
今度は最初から、肩が触れたままだった。
どちらも、もう離そうとはしなかった。
そのまま並んで、夜の坂道を、ゆっくりと上っていく。
言葉はなくても、触れ合う体温だけで、十分だった。
高専の灯りが視界に入った瞬間、それまで包み込んでいた夜の静けさが、まるで嘘みたいにほどけた。
建物の窓からこぼれる光と、遠くから聞こえてくる笑い声が、現実へ引き戻すみたいに胸の奥へ流れ込んでくる。
ついさっきまで、世界には自分たち二人しかいなかったような気がしていたのに、その感覚が一気に剥がれ落ちた。
気づけば二人は、ほとんど同時にほんの少しだけ距離を空けていた。
触れていた肩が離れ、さっきまで確かにあった体温がするりと抜け落ちる。
それだけのことなのに、胸の奥がひどく心細くなる。
透子は、自分でも理由がわからないまま、そっと息を吐いた。
ドアを開けると、すぐに明るい声が飛んでくる。
「おそーい!」
釘崎のいつもの調子だった。
共有スペースには見慣れた光景が広がっている。
ソファ、テーブル、散らかったお菓子の袋、だらけた空気。
何もかもが、数十分前と同じはずなのに。
――違う。
唇に残った感触だけが、どうしても消えない。
ほんの一瞬触れただけなのに、まだそこだけが熱を持っているみたいで、うまく呼吸ができない。
隣に立つ虎杖の気配が、やけに近い。
腕が触れそうになるたびに胸が跳ね、目が合いそうになるたびに、反射みたいに視線を逸らしてしまう。
いつも通りに振る舞っているつもりなのに、全然できていない自分がわかる。
袋を置く手つきさえ、どこかぎこちない。
「……お前ら、なんか変だぞ」
伏黒の淡々とした声が、不意に落ちてきた。
二人同時に、ぴたりと固まる。
「え」
「な、なんでもねぇ!」
一拍遅れて、釘崎が吹き出した。
「何そのハモり。怪しすぎるんだけど」
笑いが広がる。
透子は俯いたまま、小さく息を吐いた。
胸の奥で、まだ鼓動が止まらない。
指先が、ほんの少し震えている。
たった一度、触れただけなのに。
それだけなのに、世界の色が少しだけ変わってしまった気がする。
虎杖が隣にいる。
同じ空間にいて、同じ空気を吸っている。
ただそれだけのことが、どうしようもなく愛おしくて。
透子は、誰にも気づかれないように、ほんの少しだけ唇を指でなぞった。
まだそこに残っている温度を確かめるみたいに。
それだけで、透子の胸の奥は静かに満たされていた。