14-1.溢れ出した思い(前編)

朝の教室には、まだ人がまばらで、窓から差し込む淡い光が机の上に静かに広がっていた。

昨夜の熱がどこかに残っているみたいに、空気はやけに柔らかく、まだ一日が始まりきっていない時間特有の、気の抜けた静けさが満ちている。

透子は、いつもより少しだけ早く席に着いていた。

理由は自分でもわかっていた。
誰にも会わないうちに、気持ちを落ち着けておきたかっただけだ。

鞄を机の横に掛け、椅子に腰を下ろす。
指先が無意識に唇へ触れかけて、はっとして止まる。

昨夜のことを思い出すだけで、胸の奥がきゅっと縮む。

触れた温度。
重なった呼吸。
唇のやわらかさ。

あれは夢じゃない。
確かに、現実だった。

「……っ」

小さく息を吸い込んだ、そのとき。

「おはよ、時雨」

背後から、聞き慣れた声がした。
心臓が、跳ね上がる。

ゆっくり振り返ればいいだけなのに、首がうまく動かない。
ようやく顔を上げたときには、視線はすでに床へ落ちていた。

「……おはよ」

自分でも驚くほど素っ気ない声が出る。
虎杖が、少し不思議そうに笑った。

「なんか眠そうじゃね?」
「……うん、ちょっと」

嘘だった。
眠くなんかない。
むしろ頭はやけに冴えている。

ただ、虎杖の顔をまともに見られないだけだ。

視線を合わせたら、昨日の夜のことが全部溢れてきそうで、どうしても怖かった。

「昨日遅かったもんな」

そう言って、いつも通り隣の席に座る。
距離が、近い。
制服の袖がほんの少し触れただけで、心臓がうるさく鳴る。
耐えきれず、透子は立ち上がった。

「……飲み物、買ってくる」
「あ、俺も——」

言い終わる前に、もう歩き出していた。
逃げるみたいに教室を出て、廊下の冷たい空気を吸い込む。

自分でも、ひどい態度だとわかっている。
わかっているのに、止められない。
 
昼休みになっても、その調子は変わらなかった。

「時雨、一緒にメシ食おうぜ」

虎杖が当たり前みたいに隣へ来る。
いつもなら、それが嬉しくて、何も考えずに頷いていたのに。

今日は、喉の奥がぎゅっと詰まって、うまく言葉が出てこない。

「……ごめん、先に購買行ってくる」

気づけば、また嘘をついていた。
虎杖が「あれ?」という顔をする。

その表情が胸に刺さる。
傷つけた、と思う。

なのに、足は止まらなかった。

好きだから近づきたいのに、近づくほど苦しくなる。
どうしてこんな気持ちになるのか、自分でもわからなかった。
 
午後の授業が終わるころには、虎杖の視線が明らかにこちらを追っているのがわかった。

何度か目が合いそうになって、そのたびに逸らしてしまう。
逃げている自覚がある分だけ、胸の奥が重く沈んでいく。

昨日までは、普通に笑えていたのに。
触れても平気だったのに。

たった一度キスしただけで、どうしてこんなにも世界が変わってしまったんだろう。
 

放課後。

廊下を歩いていると、不意に手首を掴まれた。
思ったより強い力だった。

「……時雨」

振り返ると、虎杖が真剣な顔で立っている。
いつもの笑顔じゃない。
眉が寄って、唇が固く結ばれている。

「俺、なんかした?」

低い声だった。
怒っているというより、傷ついている声。

その顔を見た瞬間、胸の奥がぐちゃぐちゃに崩れた。

逃げたかったわけじゃない。
嫌いになったわけでもない。
むしろ逆だ。

好きすぎて、どうしていいかわからなくなっただけなのに。

言葉が出ない透子の手を、虎杖はそのまま引いた。

「……来て」

短く、それだけ言って。
透子は、抵抗できなかった。

その手の温度が、ひどく優しくて、ひどく苦しかったから。