14-2.溢れ出した思い(後編)

虎杖に手首を掴まれたまま、透子は黙って廊下を歩いていた。

窓の外はもう夕方の色に変わっている。
ガラスに映る二人の影が細長く伸びて、床の上を揺れていた。

虎杖は一度も振り返らない。
早歩きでもないのに、妙に距離が詰まらない背中だった。
怒っているのか、それとも焦っているのか、わからない。
ただ、置いていかれそうな感じだけがして、透子は自然と歩幅を速めていた。

部屋のドアが開く。
中に入ると、いつもの匂いがする。
洗剤と、汗と、少しだけ日向の布団みたいな匂い。

見慣れた机。
脱ぎっぱなしのパーカー。
ベッドの上に放り出された漫画。
変わらない景色なのに、胸だけが落ち着かない。

ドアが閉まる。
かちり、と鍵の音がした。
その音で、逃げ道がなくなった気がした。

「……時雨」

呼ばれて、肩が跳ねる。
虎杖が、ようやくこっちを見る。
いつもみたいに笑っていない。

「俺、なんかした?」

透子は首を振ろうとした。
でも動かなかった。

「今日さ、朝からずっと変だろ」

一歩、近づく。

「話しかけても、目ぇ合わねぇし」

もう一歩。

「避けられてんのかなって、思って」

言葉の最後が、ほんの少しだけ弱くなる。
それを聞いた瞬間、胸が強く締めつけられた。
そんなふうに思わせたかったわけじゃない。
絶対に、違うのに。

「……嫌われたのかと思った」

その一言が、とどめだった。

「ちが……」

声が掠れる。
喉の奥が熱い。
うまく息が吸えない。
違うって言いたいのに、うまく形にならない。

頭の中にあるのは、昨日のことばかりだった。
唇が触れた感触。
近すぎた距離。
腕の中の体温。

思い出すたび、胸の奥がぎゅっと縮む。
理由がわからないまま、感情だけが膨らんでいく。

「……虎杖の、そばにいると」

やっと出た声が、震えていた。

「嬉しいのに……苦しくなるの」

視界が滲む。

「なんか、変で……」

うまく笑えない。

「何もかも、虎杖が初めてだから……」

喉が詰まる。

「どうしていいか、わかんなくて……」

言葉が途中で崩れる。
気づいたら涙が落ちていた。
自分でも驚くくらい、止まらない。

「好きなのに、怖いし……」

息が乱れる。

「幸せなのに、胸が痛くて……」

手が震える。

「私……ぐちゃぐちゃで……」

うまく立っていられなくなる。

「だから……そばにいるの、怖くて……」

最後は、ほとんど消えそうな声だった。
沈黙が落ちる。

次の瞬間、腕が引かれた。
強くではない。
でも迷いなく。
気づけば、虎杖の胸に額が当たっていた。
制服越しの体温が、やけにあたたかい。

「……何言ってんだよ」

低い声が、すぐ上から落ちてくる。
呆れたみたいな、でもどこか焦った声。

「んなことで避けんなよ……」

ぎゅっと、背中に腕が回る。
ぎこちない抱き方。
でも、必死なのが伝わる。

「俺だって同じだし」

透子が顔を上げる。
虎杖の耳が真っ赤だった。

「そばにいるとさ、心臓うるせぇし」

苦笑する。

「触れたら変なこと考えそうで、めちゃくちゃ焦るし」

言いながら、自分で照れて視線を逸らす。

「でもさ」

少しだけ力を込めて、抱き寄せる。

「離れんのは、もっと嫌なんだよ」

その言葉が、胸にそのまま落ちた。
透子の手が、無意識に虎杖の服を掴む。
縋るみたいに。

「だからさ」

虎杖が、小さく笑う。

「一人で抱えんな。苦しいなら、俺も一緒に抱えるから」

その言い方が、あまりにも虎杖らしくて。
透子は泣きながら笑ってしまった。
ようやく、ちゃんと息が吸えた気がした。

しばらく、どちらも離れなかった。
抱きしめ合ったまま、ただ立っているだけなのに、互いの呼吸がゆっくり揃っていくのがわかる。
透子の頬に当たる虎杖の胸が、規則正しく上下していた。
その振動が、じんわりと体の奥まで伝わってくる。
生きている音だった。

ああ、と透子は思う。
この鼓動を、もう知っている。
この体温を、もう手放したくない。
怖いと思っていたはずなのに、触れているほうがずっと安心するなんて。
自分でも、少し可笑しかった。

「……時雨」

頭の上で、虎杖の声がする。
さっきより、だいぶ柔らかい。

「もう逃げんなよ」

命令でもお願いでもなく、ただの本音みたいな言い方だった。
透子は小さく頷く。
制服を掴んでいた手に、そっと力を込める。

「……うん」

今度は、ちゃんと声になった。
虎杖の腕が少しだけ緩む。
それでも、完全には離れない。
名残惜しそうに、もう一度だけぎゅっと抱き寄せてから、ようやく体を離した。

離れたはずなのに、さっきより距離が近い。
指先が、まだ触れている。

窓の外では、いつの間にか夜が深くなっていた。
寮の廊下を誰かが走る音がする。
遠くで笑い声も聞こえる。
いつもと同じ、高専の夜。
世界は何も変わっていない。
なのに、隣に立つ虎杖を見上げるだけで、胸の奥が静かに満たされる。

透子は、そっと息を吐いた。
もう、無理に強がらなくていい。
泣いても、迷っても、ぐちゃぐちゃでも。
この人の隣なら、大丈夫だと思えた。
虎杖が、照れくさそうに頭をかく。

「……腹減ったな」

場違いなくらい、いつも通りの一言。
それがおかしくて、透子は笑った。

「……うん」

その笑い声は、驚くほど軽かった。
二人並んでドアに向かう。
肩が、自然に触れる。
もう、どちらも避けなかった。