15-1.寂しさの温度(前編)
夜の高専は、昼間よりも少し広く感じられる。
授業も任務もない一日だった。
共有スペースの灯りは落ち、廊下には人の気配がほとんどない。
どこかの部屋から微かにテレビの音が漏れているが、それも遠く、別の世界の出来事のように思える。
透子はゆっくりと廊下を歩いていた。
女子寮に戻っても、釘崎はいない。
夕方から外出していると聞いた。
伏黒は資料室で何か調べ物をしているらしい。
それぞれがそれぞれの時間を過ごしている。
それは当たり前のことなのに。
なぜか今夜は、その「それぞれ」がやけに遠く感じられた。
窓の外に目をやると、街の灯りが点々と瞬いている。
あの灯りのひとつひとつには、きっと帰る場所がある。
当たり前に戻る部屋があって、待つ人がいて、生活の匂いがある。
透子は立ち止まった。
自分には、どこが『帰る場所』なのだろうと、ふと思った。
高専の部屋は確かに自分の部屋だ。
制服も、机も、ベッドもある。
けれどそれは「与えられた場所」であって、「選ばれている場所」ではない気がしてしまう。
その感覚が胸の奥でじわりと広がる。
――考えなきゃよかった。
引き返そうとして、廊下の奥に漏れる明かりに気づく。
虎杖の部屋。
扉の下から、暖かい色の光が細く伸びている。
少し迷ってから、透子は小さくノックした。
二回。
すぐに足音が近づく。
扉が開く。
「時雨?」
虎杖は意外そうに目を丸くしたが、すぐにいつもの顔になる。
「どうした? 珍しいな」
責めるでも、深く探るでもなく、ただ自然にそう言う。
透子は一瞬言葉に詰まる。
理由は、うまく説明できない。
「……ちょっと」
それだけ言うと、虎杖は迷わず言った。
「入る?」
当たり前みたいに、道を空ける。
透子は小さく頷き、部屋に足を踏み入れた。
ベッドの端には脱ぎかけのパーカー。
机には開いたままのノート。
床には読みかけの漫画が伏せられている。
整っているわけでも、乱れているわけでもない。
そこには、誰かが毎日をちゃんと過ごしている気配があった。
それだけで、少しだけ胸の奥の緊張がほどける。
「なんか飲む?」
虎杖が冷蔵庫を開けながら言う。
「……ううん」
透子はベッドの端に腰掛けた。
沈黙が落ちる。
気まずさではない。
けれど、何かが胸の内側で落ち着かない。
虎杖が床に座り、背中をベッドに預ける。
距離は近い。
触れようと思えば触れられる距離。
ふいに、虎杖が口を開いた。
「今日さ」
透子が視線を向ける。
「なんか一日、変だった」
「変?」
「うん。別に何もない日だったのに」
少し照れたように笑う。
「時雨と全然話してなかったからかな」
あまりにも軽い口調だった。
深い意味もなさそうに。
けれどその一言が、透子の胸を強く打つ。
「……え」
「なんか足りねぇ感じ」
虎杖は肩をすくめる。
「俺、思ったより依存してんのかもな」
冗談めかして言うが、目は逸らさない。
その視線の真っ直ぐさに、透子の呼吸が浅くなる。
自分が『足りない部分』になっている。
誰かの一日を、ほんの少し左右している。
そんな経験は、今までほとんどなかった。
嬉しい。
嬉しいはずなのに。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「……ねえ」
声が思ったより小さい。
虎杖が顔を上げる。
透子は自分の指先を見つめたまま、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「私、こういうの、慣れてなくて」
「こういうの?」
「誰かの中で、ちゃんと居場所がある感じ」
喉が詰まる。
「大事にされるの、嬉しいのに」
息を吸う。
「続くって思うと、急に怖くなる」
沈黙が落ちる。
部屋の時計の針が、規則正しく時を刻んでいる。
「なくなる前提で考えちゃうの、やめたいのに」
透子はやっと虎杖を見る。
逃げない目で。
「私、いつもどうせいなくなるって思う癖があって」
それは愚痴ではなかった。
長い間染みついていた思考の告白だった。
虎杖はすぐには答えなかった。
軽く否定もしない。
少しだけ考えてから、ゆっくり立ち上がる。
透子の前にしゃがむ。
目線が同じ高さになる。
「そっか」
短い言葉。
けれど、拒まない響きだった。
「じゃあさ」
虎杖は真っ直ぐ透子を見る。
「いなくなる前提で考えなくていい、とは言わねぇ」
透子が瞬く。
「怖いの、急に消えねぇだろ」
あっさりと言う。
「でも俺は、いなくなる予定ない」
その言い方は、誓いというより事実のようだった。
「時雨が慣れてなくても、俺は慣れるし」
少しだけ照れたように笑う。
「足りねぇって思うの、俺なんだから」
その言葉が、最後の糸を切った。
透子は気づけば、距離を詰めていた。
額が触れそうなほど近づく。
「……安心するの」
かすれた声。
「虎杖の部屋にいると」
虎杖は少し息を止め、それから小さく笑う。
「なら、ここ来ればいい」
簡単に言う。
「理由なくても」
透子の指が、虎杖のシャツを掴む。
涙は出ない。
代わりに、長い間胸にあった冷たいものが、ゆっくり溶けていく。
虎杖はそのまま、そっと透子を抱き寄せた。
急がない。
強くもない。
ただ、そこにいることを確かめる抱擁。
透子は胸に顔を埋める。
鼓動が聞こえる。
規則正しく、確かに。
寂しさは消えない。
けれど。
この鼓動の隣にいる限り、自分は消えないのかもしれないと、初めて思えた。