11-1.夜の匂い@

任務は、想定よりも少しだけ長引いた。
呪霊自体は大したものではなかったが、残穢の処理に時間を取られた。最後の確認が終わった頃には、あたりはもう完全に深夜の空気になっている。

「……これで、大丈夫です」

リョウが端末を閉じる。声はいつも通り落ち着いているが、肩の力は明らかに落ちていた。
五条は少し離れたところからその様子を見て、小さく息を吐く。

「お疲れ。結構引っ張られたね」

そう言うと、リョウは一瞬だけほっとしたような顔をして、小さく頷いた。
駅へ向かう道は、昼間よりずっと静かだった。
並んで歩きながら、五条は何気なくスマホを確認して、ほんの少しだけ眉を寄せる。

「……終電、もうないね」

リョウも慌ててスマホを見る。

「……あ、本当だ……」

一瞬、言葉に詰まる。その沈黙の間に、五条はもう結論を出していた。

「うちに泊まる?」

あまりにも自然な調子で言ったせいか、リョウは一拍遅れて固まった。

「……え?」
「ここからだと、僕の家のほうが近いし。それに、この時間に一人で帰らせる気ないんだけど」

それだけ言って歩き出す。
少し遅れて、リョウもついてくる。

「……ご迷惑じゃ……」
「全然」

即答だった。

――むしろ、迷う理由がない。

そう思ったこと自体に、五条は内心で小さく苦笑する。
部屋に着いたとき、リョウは玄関で一瞬だけ立ち止まった。

「……お邪魔します」

その声が、少しだけ硬い。

「どうぞ」

部屋に入った途端、空気が変わる。
任務の延長じゃない、完全なプライベートの領域。
リョウは目に見えて戸惑っているようだった。

「適当に座ってて。何か飲む?」
「……お水、もらえますか?」
「ん、了解」

キッチンに向かいながら、五条は視線の端で彼女の様子を追う。
ソファの端に、きっちり距離を取って座っている。

――律儀っていうか、警戒心強いっていうか。

付き合い始めてからも相変わらずの様子に、五条は小さく笑う。
ミネラルウォーターと一緒に、タオルと部屋着を持って戻る。

「これ使って。サイズは……まあ、大きいとは思うけど我慢して」
「……ありがとうございます」

受け取るとき、指先がほんの一瞬触れた。
それだけなのに、空気がわずかに張り詰める。

「先にシャワー使う? 疲れたでしょ」
「いいんですか?」
「もちろん。……それとも、一緒に入る?」

耳元に近い位置で、からかうように言う。
リョウの頬が、分かりやすく赤くなる。

「冗談だよ。……ゆっくり温まってきな」

そう言って、軽く頭に手を置く。
撫でるというより、確かめるみたいな触れ方だった。
リョウは少し困ったような、でもどこか安心したような顔をして、バスルームに消えていく。
ドアが閉まったあと、部屋に残るのは水の音だけになる。
五条はソファに座って、天井を見上げた。
さっきの赤くなった頬。
少し潤んだ目。
距離が近すぎたこと。

――……参ったな。

小さく息を吐いて、気持ちを落ち着かせる。
しばらくして、シャワーの音が止まる。
ドアが開いて、リョウが戻ってくる。
ぶかぶかの部屋着。
少し濡れた髪。
仕事のときの「整った感じ」が、きれいに消えている。
さっきまで、任務の現場で見ていた人間と、同一人物とは思えなかった。
視線が、意志に反して首元に落ちて、すぐに逸らす。
それでも、もう一度、確認するみたいに見てしまう。

——まずい。

そう思うほどに、意識は離れてくれない。

「……サイズ、やっぱり大きかったです」

そう言って、袖口をつまむ仕草すら、やけに目に付く。
五条は、喉の奥で小さく息を詰めてから、何でもないふうを装って答えた。

「……似合ってるよ」

声が、少しだけ低くなった自覚はあった。
五条は、ほんの一瞬だけ視線を逸らす。

――……これは、ちょっと。

そう思っただけなのに、胸の奥が静かにざわめく。
短く答えながら、声がわずかに低くなる。
同じソファに座る。
距離はちゃんとある。
でも、昼間よりずっと近い。
テレビはついているが、内容はほとんど頭に入ってこない。
意識は、ずっと横にいる彼女の存在に引っ張られている。

「……今日は、疲れましたね」
「そりゃね」

その声は、いつもより少しだけ柔らかい。
しばらくして、リョウが小さく欠伸を噛み殺す。
目元に疲労がにじんで、とろんとしている。

「もう寝な。ベッド使っていいから」
「え……でも……」
「僕はソファでいい」

迷いのない声だった。
リョウは少しだけ躊躇してから、頷く。

「……ありがとうございます」

寝室に入る前、ふと振り返る。

「……本当に、すみません。色々」
「気にしないで」

それだけ言って、ドアが閉まる。
静かになる部屋。
五条はしばらく、その扉を見たまま動かなかった。
抑えていた息が、ゆっくりと吐き出される。
さっきの距離。
ゆるんだ夜の空気。
ぶかぶかの部屋着からのぞいていた、白い肌の色。
ソファに深く腰を沈めて、天井を見上げる。

――……これは、思ってたより、しんどい夜になりそうだ。

理性は、まだちゃんと働いている。
でも、意識の大半は、もう隣の部屋に持っていかれていた。