3.もう引き返せない

 店の前に着いたのは、思っていたよりも遅い時間だった。
 表通りから少し外れた場所にある、小さくて静かな店。看板の灯りも控えめで、知らなければ通り過ぎてしまいそうな佇まいをしている。

「……ここ、ですか?」

 隣を歩いていた彼女が、少しだけ声を落として言った。意外そうに五条を見上げている。

「この時間だと、騒がしい店ばっかりだからね」

 五条はそう答えて、先に扉を開ける。今回は時間帯と彼女の体調を考慮しての選択だった。
 中は外から受けた印象どおり、客も少なく落ち着いていた。店員に案内され、奥の席に腰を下ろすと、彼女は少し遠慮がちにメニューを開く。

「好きなの頼んで」
「え、でも……」
「奢るって言ったでしょ。今日は」

 そう言うと、彼女は一瞬だけ言葉に詰まってから、小さく頷いた。ホッとしたように、口元が緩んでいる。

「……ありがとうございます」

 注文を終えて、料理が来るまでの間、二人の間には静かな沈黙が落ちた。不思議と気まずさはない。どちらも無理に言葉を探さなくても、自然としていられるような空気が漂っていた。
 彼女の表情は、任務中の張りつめたものよりも、ずいぶん柔らい。だが、完全に力が抜けきっているわけでもないようだった。
 五条はそれを横目に見て、内心でだけ判断を下す。

 ――ちゃんと、限界に近い。

 料理が運ばれてきて、二人は静かに食べ始めた。口に入れると、リョウの目がふわりと見開かれる。

「……おいしいです」

 ぽつりと、彼女がそう言った。

「でしょ」

 五条はそれだけ返して笑う。そしてまた食事に戻った。
 しばらくして、彼女がフォークを置き、少し迷うようにしてから口を開いた。

「今日は……ありがとうございました」
「任務の続きみたいなもんだ。気にしなくていい」

 五条はそう言って、グラスに口をつけた。その様子にリョウはまだ納得していないようだった。
 会計の時、彼女は案の定、財布を出そうとする。

「出します」
「いい」

 五条はそれを制して、さっさと端末を出した。

「今日は僕が連れ回した。だから、ここまでの面倒は見させて」

 それ以上言わせずに、会計を済ませる。店を出ると、夜の空気は思ったよりも冷えていた。

「送るよ」

 短くそう言って、タクシーを呼ぶ。彼女の行き先は、自宅の最寄りだった。
 二人で後部座席に乗り込むと、車内は驚くほど静かになる。走り出してしばらくしてから、五条は横を見る。彼女は窓の外を見たまま、瞬きの間隔が少しずつ長くなっていた。

 ――気が抜けたな。

 眠ってはいない。ただ、緊張が解けて、意識が沈みかけているだけだ。小さな揺れに合わせて、彼女の頭がわずかに傾く。
 次の瞬間、ふわりと、彼女の額が五条の肩に触れた。五条は、ほんの一瞬だけ身体を強張らせる。

 ――近い。

 そう思った時点で、もう遅かった。彼女の体温が、服越しに伝わってくる。思っていたよりもずっと軽くて、そして、やけに現実感がある温もりだった。
 振り払うこともできた。あるいは、支えることもできた。だが、五条はどちらもしなかった。どちらかを行ってしまえば、今の彼女との間にある危うい均衡が、簡単に崩れてしまうような気がしたからだ。
 タクシーは何事もなかったように夜道を進む。窓の外の灯りが、ゆっくりと流れていく。

 ――これは、越えちゃいけない距離だ。

 そう理解しているのに、肩に伝わる重さを、拒む気にはなれなかった。むしろ、もっとこのままでいたいとすら思った。
 やがて、タクシーは目的地の近くで止まる。

「……あ、すみません」

 彼女ははっとして身を離し、少し慌てた様子でドアを開けた。

「今日は、本当にありがとうございました。おやすみなさい」
「……おやすみ」

 それだけ言って、彼女が夜の中に消えるのを見送る。ドアが閉まり、タクシーは再び走り出す。
 車内には、もう彼女はいない。それなのに、さっきまで肩にあったはずの重さだけが、妙に生々しく残っている。
 五条はシートに深く背中を預け、天井を見上げた。

 ――参ったな。

 今さら、逃げ道を探すほど鈍くはない。あれを「ただの気遣い」だと言い張るには、さっきの沈黙は、あまりにも長すぎた。あの距離を、惜しいと思った。その事実を、ようやく認める。
 そして同時に、はっきりと理解する。次は、今日と同じ顔をして、同じ距離に立っていられる気がしなかった。

 タクシーの窓に映る夜景をぼんやりと眺めながら、五条は、静かに息を吐いた。
 どうやらこれは、思っていたよりもずっと、引き返しのきかないところまで来てしまっているらしい。
 窓ガラスに写る自分の姿を見て、そう自覚せざるを得なかった。