店の前に着いたのは、思っていたよりも遅い時間だった。
表通りから少し外れた場所にある、小さくて静かな店。看板の灯りも控えめで、知らなければ通り過ぎてしまいそうな佇まいをしている。
「……ここ、ですか?」
隣を歩いていた彼女が、少しだけ声を落として言った。意外そうに五条を見上げている。
「この時間だと、騒がしい店ばっかりだからね」
五条はそう答えて、先に扉を開ける。今回は時間帯と彼女の体調を考慮しての選択だった。
中は外から受けた印象どおり、客も少なく落ち着いていた。店員に案内され、奥の席に腰を下ろすと、彼女は少し遠慮がちにメニューを開く。
「好きなの頼んで」
「え、でも……」
「奢るって言ったでしょ。今日は」
そう言うと、彼女は一瞬だけ言葉に詰まってから、小さく頷いた。ホッとしたように、口元が緩んでいる。
「……ありがとうございます」
注文を終えて、料理が来るまでの間、二人の間には静かな沈黙が落ちた。不思議と気まずさはない。どちらも無理に言葉を探さなくても、自然としていられるような空気が漂っていた。
彼女の表情は、任務中の張りつめたものよりも、ずいぶん柔らい。だが、完全に力が抜けきっているわけでもないようだった。
五条はそれを横目に見て、内心でだけ判断を下す。
――ちゃんと、限界に近い。
料理が運ばれてきて、二人は静かに食べ始めた。口に入れると、リョウの目がふわりと見開かれる。
「……おいしいです」
ぽつりと、彼女がそう言った。
「でしょ」
五条はそれだけ返して笑う。そしてまた食事に戻った。
しばらくして、彼女がフォークを置き、少し迷うようにしてから口を開いた。
「今日は……ありがとうございました」
「任務の続きみたいなもんだ。気にしなくていい」
五条はそう言って、グラスに口をつけた。その様子にリョウはまだ納得していないようだった。
会計の時、彼女は案の定、財布を出そうとする。
「出します」
「いい」
五条はそれを制して、さっさと端末を出した。
「今日は僕が連れ回した。だから、ここまでの面倒は見させて」
それ以上言わせずに、会計を済ませる。店を出ると、夜の空気は思ったよりも冷えていた。
「送るよ」
短くそう言って、タクシーを呼ぶ。彼女の行き先は、自宅の最寄りだった。
二人で後部座席に乗り込むと、車内は驚くほど静かになる。走り出してしばらくしてから、五条は横を見る。彼女は窓の外を見たまま、瞬きの間隔が少しずつ長くなっていた。
――気が抜けたな。
眠ってはいない。ただ、緊張が解けて、意識が沈みかけているだけだ。小さな揺れに合わせて、彼女の頭がわずかに傾く。
次の瞬間、ふわりと、彼女の額が五条の肩に触れた。五条は、ほんの一瞬だけ身体を強張らせる。
――近い。
そう思った時点で、もう遅かった。彼女の体温が、服越しに伝わってくる。思っていたよりもずっと軽くて、そして、やけに現実感がある温もりだった。
振り払うこともできた。あるいは、支えることもできた。だが、五条はどちらもしなかった。どちらかを行ってしまえば、今の彼女との間にある危うい均衡が、簡単に崩れてしまうような気がしたからだ。
タクシーは何事もなかったように夜道を進む。窓の外の灯りが、ゆっくりと流れていく。
――これは、越えちゃいけない距離だ。
そう理解しているのに、肩に伝わる重さを、拒む気にはなれなかった。むしろ、もっとこのままでいたいとすら思った。
やがて、タクシーは目的地の近くで止まる。
「……あ、すみません」
彼女ははっとして身を離し、少し慌てた様子でドアを開けた。
「今日は、本当にありがとうございました。おやすみなさい」
「……おやすみ」
それだけ言って、彼女が夜の中に消えるのを見送る。ドアが閉まり、タクシーは再び走り出す。
車内には、もう彼女はいない。それなのに、さっきまで肩にあったはずの重さだけが、妙に生々しく残っている。
五条はシートに深く背中を預け、天井を見上げた。
――参ったな。
今さら、逃げ道を探すほど鈍くはない。あれを「ただの気遣い」だと言い張るには、さっきの沈黙は、あまりにも長すぎた。あの距離を、惜しいと思った。その事実を、ようやく認める。
そして同時に、はっきりと理解する。次は、今日と同じ顔をして、同じ距離に立っていられる気がしなかった。
タクシーの窓に映る夜景をぼんやりと眺めながら、五条は、静かに息を吐いた。
どうやらこれは、思っていたよりもずっと、引き返しのきかないところまで来てしまっているらしい。
窓ガラスに写る自分の姿を見て、そう自覚せざるを得なかった。