15.帰るところ

夜更けの空気をまとったまま、五条はゆっくりと玄関の鍵を回した。

任務を終えた直後特有の軽い疲労が身体の奥に沈んでいて、動こうと思えばいくらでも動けるのに、神経の芯だけがじんわりと熱を帯びている。

ドアを開けた瞬間、部屋の奥に灯っている柔らかな光が目に入り、そのたったそれだけのことで胸の奥が不思議なほどゆるんだ。

「ただいま」

自然にこぼれた声に、間を置かず返事が返ってくる。

「おかえりなさい」

リビングでは、ローテーブルいっぱいに資料を広げたリョウが、何事もない顔でペンを走らせていた。

仕事に集中しているはずなのに、彼女はこの部屋の空気を乱すことなく、まるで最初からここに住んでいたかのように当たり前の顔でそこに馴染んでいる。

他人の生活圏にこんなにも自然に溶け込める人間を、五条は他に知らなかった。

そのままソファに身を預けると、クッションが鈍い音を立てて沈む。

「疲れた」

素直に口にすると、リョウは手を止めて顔を上げ、きちんとこちらを見て微笑んだ。

「お疲れさまです」

それだけの、なんでもない笑顔なのに、さっきまで戦場に張りつめていた神経が嘘みたいにほどけていく。

「コーヒー淹れますか?」
「あとでいいや」
「わかりました」

当たり前みたいに交わされる言葉の端々に、もう説明はいらなかった。

五条はそのまま腕を伸ばして、座ったままのリョウの腰に抱きつく。
体重を預けるように寄りかかると、すぐに小さな抗議の声が落ちてきた。

「……重いです」
「癒し補給中」

呆れたように息を吐きながらも、彼女は本気でどかそうとはしなかった。

代わりに、指先が無意識に髪に触れ、ゆっくりと梳く。

柔らかく、何の気負いもない仕草。
それが彼女なりの「おかえり」だということを、五条はもう知っている。

「怪我ないですか」
「ないよ。僕だよ?」

軽口のつもりで言ったのに、リョウは少しだけ眉を寄せて、もう一度髪を撫でた。

「……それでも、です」

過剰に心配はしないくせに、こういうところだけ妙に真面目で、誤魔化しが効かない。

五条は顔を上げて、至近距離から彼女を見上げた。

「ね」
「はい」
「キスして」
「……は?」
「ご褒美」
「子どもですか」
「うん」

呆れたように言いながらも、リョウは観念したように少しだけ身を屈める。

その瞬間、五条は後頭部に手を回して引き寄せ、そのまま唇を重ねた。

触れるだけのはずの口づけが、思ったよりも長く続いてしまい、離れたあとも名残惜しくて、角度を変えてもう一度重ねる。

ゆっくりと、確かめるみたいに。

唇の端から小さく息がこぼれ、シャツの袖を掴む指先に力が入ったのが伝わってきて、五条は思わず笑った。

ああ、この人、本当に僕のこと好きなんだな、と、そんな当たり前の事実が妙に愛おしい。

「仕事、進めなくていいの」
「……五条さんが邪魔してきたんですよ」
「人のせいにすんなよ」

額を軽くぶつけると、互いの体温がそのまま混ざり合う。

戦うのも好きだし、強い自分でいるのも嫌いじゃないし、世界のことも呪いのことも、どうでもいいなんて思っていない。

全部背負う覚悟で立っているし、全部片付けるつもりで生きている。

それでも。

その全部を終えたあと、最後に帰ってきたい場所がここで、リョウがいる部屋だという事実のほうが、今はよほど切実だった。

唇を離しても、額が触れるほどの距離のまま、五条は静かに目を細める。

この光景が、いつのまにか自分の中で「日常」になっていることに、遅れて気づきながら。

しばらくのあいだ、互いの額を寄せたまま、どちらも動かなかった。

部屋にはリョウの端末が小さく駆動する音だけが残っていて、さっきまでそこにあった仕事の気配が、いつのまにか遠いものになっている。

このまま、こうしているだけでいいと、五条は本気で思った。

「……あのさ」

ふと口をついて出た声は、自分でも驚くくらい素直だった。

「はい?」

何の警戒もなく返事をする声が近い。

五条は腕を伸ばして、当たり前みたいにその体を引き寄せる。

抵抗はない。
驚くほど自然に、彼女の体は胸元に収まる。
軽いはずなのに、妙にしっくりくる重さだった。

抱き慣れてきた、と思ってしまうことが少し可笑しい。

「もうさ」

リョウの髪に頬を寄せたまま、五条は続ける。

「ずっと一緒でよくない?」
「……は?」

間の抜けた声が返ってきた。

「いちいち帰るの、面倒じゃない? ここ住めばいいじゃん」

自分でも拍子抜けするくらい軽い調子で言ったせいで、告白というより世間話みたいな響きになった。

リョウの体がぴたりと止まる。
数秒、ほんとうに何も言わなくなった。

「……それは」

ゆっくり顔を上げて、少しだけ眉を寄せる。

「同棲のお誘いですか?」
「うん」
「軽すぎません?」
「だって」

五条は肩をすくめた。

「もうほぼ住んでるでしょ」

言いながら、視線を部屋のあちこちに流す。

洗面所にはいつのまにか増えた歯ブラシが並んでいるし、テーブルの隅には彼女のヘアゴムが置きっぱなしになっている。

クローゼットの半分は自然とリョウの服が占領していて、キッチンの棚には彼女専用のマグカップまで増えていた。

どれもこれも「持ってきた」というより、「気づいたらそこにあった」という感じで、生活の中に溶け込んでいる。

まるで最初から、ここにいたように。

「いない前提で暮らすほうが、もう面倒なんだよね」

冗談みたいな声色のまま、本音だけがそのままこぼれた。

リョウは少しだけ視線を落として、それから小さく笑う。
困ったみたいな、でもどこか嬉しそうな笑い方だった。

「……じゃあ」
「ん?」
「着替え、ちゃんとまとめて持ってきます」
「それOKってこと?」
「……たぶん」
「たぶんて」

思わず笑ってしまって、もう一度、腕に力を込める。

今度は、引き寄せたわけじゃなかった。

リョウのほうから、そっと腕が背中に回る。
シャツの背を、きゅっと掴む小さな力。

逃げないという意思表示みたいで、それが妙に胸にくる。

五条は目を閉じた。

任務も責任も、明日も明後日も、何ひとつ軽くはならない。
結局また戦場に立つし、世界は相変わらず面倒だ。
それでも。
帰ってきたとき、この体温が当たり前に隣にあるなら。

「……リョウ」
「はい」
「好き」

間抜けなくらい単純な言葉しか出てこない。
リョウは一瞬だけ目を丸くして、それから小さく息を吐くみたいに笑った。

「……私もです」

声は小さいのに、確かだった。
そのまま顔を近づけると、今度はどちらからともなく唇が重なる。

触れるだけのはずだったのに、離れる理由が見つからなくて、ゆっくり角度を変えてもう一度重ねる。

柔らかい息が混ざり、ソファが二人分の重みで静かに沈んでいく。

夜はまだ長い。

きっと明日の朝も、何でもない顔で「いってきます」と言って、また同じ顔で「ただいま」と帰ってくる。

そんな当たり前みたいな未来が、もうすぐ手の届くところにあるのだと、五条はぼんやり思いながら、もう一度だけ、名残惜しく唇を重ねた。