4.失いたくないもの

 その日、祓除はすでに終わっていた。帳も解かれ、周囲の立ち入り規制も解除されている。
 現場に残っているのは、呪術高専側の人間だけだった。だが、それで「任務完了」になるほど、後処理は単純ではない。
 残穢の確認と、呪力反応の再走査をして、ようやく現場は閉じられる。

 リョウは端末を片手に、帳が張られていた範囲の縁を歩いていた。窓である彼女の仕事は、どうしても地味で、どうしても危険に近い。戦闘が終わった後の、いちばん油断しやすい場所を、いちばん丁寧に踏み直す役回りだ。
 五条は少し離れた場所から、その背中を見ていた。

 ――嫌な予感がする。

 理由は特にない。ただ、こういう「何も起きないはずの時間」に限って、ろくでもないことが起きるのを、これまでの経験から嫌というほど知っているだけだ。
 いわば、実体験に後付けされた直感のような感覚が、五条を取り巻いていた。

「その辺、もういいだろ」

 声をかけると、リョウは振り返って、少しだけ困ったように笑った。

「もう一度だけ、数値を確認します。ここ、さっき微妙に反応が残っていて……」

 そう言って彼女は端末に視線を落としたまま、半歩前に出る。五条は一瞬、舌打ちしそうになるのを堪えた。

 ――だから、そういうところだ。

 呪霊はもういない。戦闘も終わっている。それでも「残ったもの」は、時々想像以上に悪質で狡猾だ。呪いとはそういうもので、気にしすぎてもしすぎるということがない。

「待て」

 そう言ったのと、リョウが足を踏み出したのは、ほとんど同時だった。
 六眼でかすかに感知したのも束の間、空気が、歪んだ。正確には、呪力が歪んだ。地面に染みついた術式の残穢が、踏み込んだ呪力に反応して、遅れて弾ける。
 次の瞬間、彼女に衝撃が走る。

「――っ!」

 爆ぜるような呪力の奔流が、リョウの身体を吹き飛ばした。身体が、軽く宙に浮く。
 五条が動いたのは、その直後だった。すぐに距離を詰める。

――だが、ほんの一瞬、間に合わない。

 リョウの身体は、そのまま地面に叩きつけられた。あたりに鈍い音が響く。

「……おい」

 五条は傍まで行って、彼女の肩に手を置く。軽く揺さぶっても反応がない。

「……おい、聞こえてるか」

 返事はない。胸の奥が、急速にひどく冷えていくのを感じた。

 ――これは、嫌なやつだ。

 呼吸はしている。脈もある。それでも、目を覚まさない。その「当たり前のはずの情報」を確認するまでの数秒が、やけに長く感じられた。
 五条はリョウの身体を抱き起こしながら、歯を噛み締める。

 ――……ふざけるな。

 自分の視界の中にいたはずなのに。止める時間は、あったはずなのに。それでも、「間に合わなかったかもしれない」という想像が、頭から離れなくなる。

「……っ」

 五条は一度だけ、強く息を吐いた。それから、リョウを抱えたまま、ゆっくりと立ち上がる。周囲の空気が、さっきまでとは、明らかに変わっていた。

 医療班に引き渡すほどの怪我ではない、という判断はすぐに出た。
 呪力の余波による衝撃と、地面に打ちつけられた際のショックが強かっただけで、外傷は軽く、骨にも異常は見つからなかった。
 だが、意識だけが戻らない。その一点だけが、やけに五条の神経を逆撫でした。
 簡易的な処置室のベッドに寝かされたリョウの傍で、五条は腕を組んだまま動かずにいた。

 ――……数分だ。

 理屈ではわかっている。医療班も「じきに目を覚ますでしょう」と言っていた。それでも。

 ――さっきの、あれ。

 呼びかけても返事がなかった時間。身体がぐったりと力を失っていた感触。あれが、頭から離れてはくれなかった。
 五条はアイマスクを外し、無意識に目元を押さえた。

 ――冗談じゃない。

 彼女がただの仕事仲間だった頃なら、ここまで感情が荒れることはなかったはずだ。それが今は。

 ――間に合わなかったかもしれない、なんて。

 そんな想像をするだけで、胸の奥がひどく不快になる。

「……ん……」

 かすかな声が聞こえて、五条はすぐに顔を上げた。リョウのまぶたが、ゆっくりと動く。

「……ここ、は……」

 焦点の合っていない目で、天井を見ている。

「気がついたか」

 自分でも意外なほど少し強めの声が出た。
 リョウはしばらく状況を理解できない様子で瞬きを数回ぼんやりと繰り返していたが、それから、はっとしたように身体を起こそうとする。

「……っ、すみません!」

 五条は反射的に、その肩を押さえた。

「動くな」

 その声は、普段よりずっと低くて、硬いものだった。
 リョウはきょとんとした顔で五条を見上げて、それから、申し訳なさそうに視線を逸らした。

「……私、また……」
「また、じゃない」

 思ったより強い声が出て、五条は一瞬だけ舌打ちしそうになる。だが、言葉は止まらなかった。

「自分の役割を超えるな。君は確認係だ。突っ込む役じゃない」
「でも、反応が……」
「反応があったなら、僕を呼べ」

 語調は荒い。ほとんど叱責に近かった。リョウは小さく肩をすぼませて、「……すみません」と呟いた。
 その言い方が、やけに小さくて、弱々しく聞こえて、五条は一瞬言葉に詰まる。

 ――……違う。

 言いたいのは、そういうことじゃない。ただ彼女のことが心配だっただけだ。

「……謝るな」

 少し間を置いて、そう言った。リョウは驚いたように顔を上げる。彼女には予想外の言葉だったのだろう。

「君が怪我する可能性を、僕の前で作るな」

 それは、命令に近い言い方だった。リョウは、しばらく何か言いたそうに口を開きかけて、それから結局なにも言わずに頷いた。

「……はい」

 その返事を聞いて、五条はようやく少しだけ、肩の力を抜いた。
 医療班が「もう少し休んでから帰した方がいいですね」と言い、リョウはしばらく横になることになった。
 五条はそのまま、部屋を出ることもなく、彼女の傍らに立っていた。

 ――……本当に、冗談じゃない。

 ほんの数分。ほんの一瞬。それだけで、彼女が「いない」可能性を、現実として想像してしまった。それが、どうしようもなく不快だった。怖かった、と言い換えてもいい。
 でも、その言葉を自分で認めるのは、少し抵抗があった。
 リョウが落ち着いて眠り直したのを確認してから、五条はようやくその場を離れた。外に出て、一人になる。そこで初めて、ゆっくりと息を吐く。

 ――……手遅れだな。

 もう、「気にかけている」なんて言葉では済まないところまで来ている。守りたいとか、放っておけないとか、そんな生易しいものじゃない。失う可能性を、考えたくない。ただ、それだけだった。
 それほど彼女の存在が、自分の中で大きくなっているのを感じた。

 五条は外の景色を見て、ほんの少しだけ目を細めた。次からは彼女が無茶をする前に、先に前に出る。視界の外に出る前に、止める。そう決めて、五条は静かに踵を返した。
 胸の奥に残った重たい感触が、しばらく消えそうにないことを、はっきりと自覚しながら。