5.色めき立つ花

高専の構内を歩いていた五条は、前方の人の流れの中に、見覚えのある後ろ姿を見つけて足を止めた。

――あ。

書類の束と、窓の装備。
仕事のときの、あの少しだけ早い歩き方。
声をかけるより先に、リョウが今日も「仕事の顔」でここにいることがわかる。

――今日は現場じゃなかったはずだけど。

五条は歩調を変えて、距離を詰めた。

「……お疲れ」

呼び止めると、リョウは一瞬だけ肩を震わせてから振り返る。

「五条さん。お疲れさまです」

一拍遅れて、整えたような笑顔。
逃げるほどではないが、どこか構えている。

――前から、こんな反応だったか?

「今日は事後処理?」
「はい。帳のログと、残穢の記録の照合です。昨日の現場、少し範囲が広かったので」

淡々とした説明。
いつも通りのはずなのに、視線が一度だけ、五条の胸元あたりで止まる。

――……気のせいか。

「一人で?」
「……いえ、補助監督の作業はもう終わっています。あとは私の確認だけなので」

言葉の選び方が、どこか慎重だ。

「資料室?」
「はい」
「じゃあ、途中まで一緒」

軽く言うと、彼女は一瞬だけ言葉を探すように間を置いてから、頷いた。

「……お願いします」

並んで歩き出す。
リョウは五条の歩幅に、きっちり合わせている。
無意識なのか、意識してなのかはわからない。

――前から、こうだったっけ。

廊下を進みながら、他愛ない確認事項をいくつか交わす。
仕事の話は問題なく続くのに、沈黙が挟まれると、彼女はほんの少しだけ落ち着かなくなる。
指先が、書類の端をなぞる。
歩く速度が、わずかに揺れる。

――僕の方が、気にしすぎてるだけか。

資料室の前で、五条は足を止めた。

「じゃあ、僕はここで」

立ち去ろうとした五条を見て、リョウほんの一瞬だけ言葉を切らす。

「あの……」

視線が、少しだけ迷うみたいに揺れた。

「……五条さんは、このあと」
「特に予定はないよ」

五条がそう答えたのは、ほとんど反射だった。
すると、彼女はほんの一瞬だけ、ほっとしたような顔をして、すぐに取り繕う。

「あの……もし、よろしければ、少しだけ……」

言い方は控えめで、遠慮がちなものだった。
それでも、「一人になりたい」ではないことだけは、はっきり伝わってくる。

――……今のは、引き止められたのか?

そう思ったのに、確信を持つほど強いものでもない。
五条は、少しだけ間を置いてから言った。

「……いいよ」

そう言うと、彼女は少しだけ安心したみたいに、小さく頷く。

「……助かります」

その声が、ほんの少しだけ柔らかい。
作業中の彼女は、いつも通りだった。
記録を確認し、帳のログと突き合わせ、黙々とチェックを入れていく。
けれど、さっきまでよりも、どこか肩の力が抜けているように見える。
五条は、少し離れた位置から、その横顔を眺めていた。

――前は、こんなふうに気になっただろうか。

作業が終わると、リョウは小さく息を吐いた。

「……終わりました。お待たせしてすみません」
「別に。仕事だし」

そう返すと、彼女は少し困ったように笑う。

「五条さんは……いつも、そう言ってくださいますよね」
「何が?」
「私たちの仕事のこと。ちゃんと仕事として扱ってくれる」

一度言葉を切ってから、少しだけ間を置いて続ける。

「……それが、私は……その……」

視線を伏せてから、

「……助かっています」

と言い直した。

――言い直すほどのことだったか?

五条は答えず、ほんの少しだけ視線を逸らした。
資料室を出ると、廊下でリョウは「では」と頭を下げて、そのまま去っていく。
五条は、その背中を見送りながら、胸の奥に残った小さな引っかかりを、うまく言葉にできずにいた。

――別に、何かが起きたわけじゃない。

会話も、態度も、決定的に変わったわけじゃない。
ただ。
さっきの間。
あの、一瞬の表情。
あの、声のトーン。
理由をつけようと思えば、いくらでもつけられる。
疲れていただけかもしれないし、ただ誰かに近くにいてほしかっただけかもしれない。
気のせいで片づけることも、できる。
それでも。
五条は無意識のうちにポケットに手を突っ込んで、廊下の先を見た。

――……考えすぎ、だよな。

そう思いながらも、さっきの空気の感触だけが、なぜか頭から離れなかった。
結局、その違和感に名前をつけることができないまま、五条はゆっくりと歩き出した。