高専の構内を歩いていた五条は、前方の人の流れの中に、見覚えのある後ろ姿を見つけて足を止めた。
――あ。
書類の束と、窓の装備。
仕事のときの、あの少しだけ早い歩き方。
声をかけるより先に、リョウが今日も「仕事の顔」でここにいることがわかる。
――今日は現場じゃなかったはずだけど。
五条は歩調を変えて、距離を詰めた。
「……お疲れ」
呼び止めると、リョウは一瞬だけ肩を震わせてから振り返る。
「五条さん。お疲れさまです」
一拍遅れて、整えたような笑顔。
逃げるほどではないが、どこか構えている。
――前から、こんな反応だったか?
「今日は事後処理?」
「はい。帳のログと、残穢の記録の照合です。昨日の現場、少し範囲が広かったので」
淡々とした説明。
いつも通りのはずなのに、視線が一度だけ、五条の胸元あたりで止まる。
――……気のせいか。
「一人で?」
「……いえ、補助監督の作業はもう終わっています。あとは私の確認だけなので」
言葉の選び方が、どこか慎重だ。
「資料室?」
「はい」
「じゃあ、途中まで一緒」
軽く言うと、彼女は一瞬だけ言葉を探すように間を置いてから、頷いた。
「……お願いします」
並んで歩き出す。
リョウは五条の歩幅に、きっちり合わせている。
無意識なのか、意識してなのかはわからない。
――前から、こうだったっけ。
廊下を進みながら、他愛ない確認事項をいくつか交わす。
仕事の話は問題なく続くのに、沈黙が挟まれると、彼女はほんの少しだけ落ち着かなくなる。
指先が、書類の端をなぞる。
歩く速度が、わずかに揺れる。
――僕の方が、気にしすぎてるだけか。
資料室の前で、五条は足を止めた。
「じゃあ、僕はここで」
立ち去ろうとした五条を見て、リョウほんの一瞬だけ言葉を切らす。
「あの……」
視線が、少しだけ迷うみたいに揺れた。
「……五条さんは、このあと」
「特に予定はないよ」
五条がそう答えたのは、ほとんど反射だった。
すると、彼女はほんの一瞬だけ、ほっとしたような顔をして、すぐに取り繕う。
「あの……もし、よろしければ、少しだけ……」
言い方は控えめで、遠慮がちなものだった。
それでも、「一人になりたい」ではないことだけは、はっきり伝わってくる。
――……今のは、引き止められたのか?
そう思ったのに、確信を持つほど強いものでもない。
五条は、少しだけ間を置いてから言った。
「……いいよ」
そう言うと、彼女は少しだけ安心したみたいに、小さく頷く。
「……助かります」
その声が、ほんの少しだけ柔らかい。
作業中の彼女は、いつも通りだった。
記録を確認し、帳のログと突き合わせ、黙々とチェックを入れていく。
けれど、さっきまでよりも、どこか肩の力が抜けているように見える。
五条は、少し離れた位置から、その横顔を眺めていた。
――前は、こんなふうに気になっただろうか。
作業が終わると、リョウは小さく息を吐いた。
「……終わりました。お待たせしてすみません」
「別に。仕事だし」
そう返すと、彼女は少し困ったように笑う。
「五条さんは……いつも、そう言ってくださいますよね」
「何が?」
「私たちの仕事のこと。ちゃんと仕事として扱ってくれる」
一度言葉を切ってから、少しだけ間を置いて続ける。
「……それが、私は……その……」
視線を伏せてから、
「……助かっています」
と言い直した。
――言い直すほどのことだったか?
五条は答えず、ほんの少しだけ視線を逸らした。
資料室を出ると、廊下でリョウは「では」と頭を下げて、そのまま去っていく。
五条は、その背中を見送りながら、胸の奥に残った小さな引っかかりを、うまく言葉にできずにいた。
――別に、何かが起きたわけじゃない。
会話も、態度も、決定的に変わったわけじゃない。
ただ。
さっきの間。
あの、一瞬の表情。
あの、声のトーン。
理由をつけようと思えば、いくらでもつけられる。
疲れていただけかもしれないし、ただ誰かに近くにいてほしかっただけかもしれない。
気のせいで片づけることも、できる。
それでも。
五条は無意識のうちにポケットに手を突っ込んで、廊下の先を見た。
――……考えすぎ、だよな。
そう思いながらも、さっきの空気の感触だけが、なぜか頭から離れなかった。
結局、その違和感に名前をつけることができないまま、五条はゆっくりと歩き出した。