6.彼女の答え

※リョウ視点

書類の端を揃えて、クリップで留める。
帳のログ、残穢の観測記録、補助監督からの報告書。
ひとつひとつ確認しながら、机の上に積み上げていく。

――問題なし。

呪力の流れの再計算も、帳維持班への引き継ぎ内容も、抜けはない。
今日の作業は、予定通りに終わりそうだった。
窓の仕事は、基本的に地味だ。
前線に立つわけでも、呪霊と戦うわけでもない。
けれど。
帳を張るタイミングひとつで、一般人が巻き込まれるかどうかが決まる。
判断を誤れば、被害は確実に広がる。
だから私は、自分の仕事に誇りを持っている。
誰に評価されなくてもいい。
必要なことを、必要なだけ、正確にやる。
それが、私の役目だ。

……だったはずなのに。

ペンを走らせながら、ふと、別のことを考えている自分に気づく。

――五条さん、今日は高専にいたな。

さっき、廊下で会ったときのことが、頭の隅に浮かぶ。
声をかけられた瞬間、心臓が一瞬、変な音を立てたこと。
視線を合わせる前に、ほんの少しだけ呼吸が浅くなったこと。

……仕事中なのに。

私は、書類に視線を落としたまま、小さく息を吐いた。
おかしい。
以前は、こんなことはなかった。
尊敬している上司。
信頼できる呪術師。
それだけのはずだった。
最初は、ただそれだけだった。
噂に反して、仕事を軽んじない人だと思った。
窓の判断を、きちんと「判断」として扱ってくれる人だと思った。
前線に立たない私たちの役割を、当たり前のように尊重してくれる人だと。
それが、嬉しかった。

……それだけの、はずだったのに。

ペン先が、一瞬止まる。
この前の現場のことを、思い出してしまう。
帳の外。
想定外の呪力の余波。
身体が浮いた感覚と、次の瞬間の衝撃。
あの時、視界に入った白い影。

――大丈夫。

あの声。
抱き起こされた時、呪力の感触よりも先に、なぜか「安心した」と思ってしまったこと。

……仕事なのに。

ただの、任務なのに。
「助けられた」ことは、これまでにも何度もある。
でも、あの時は。

――来てくれた。

そう思ってしまった。
私は、自分の手で、書類の端を少し強く押さえる。

……良くない。

これは、良くない兆候だ。
仕事に、私情を持ち込むべきじゃない。
相手が誰であっても。
それは、わかっている。
わかっているのに。
今日、廊下で会ったとき。
「予定はない」と言われた瞬間、自分でも驚くくらい、ほっとしてしまった。

……どうして?

ただの、付き添い。
ただの、仕事の流れ。
そういうことにしておけばよかったのに。
なのに。
「助かります」と言った自分の声が、いつもより少し柔らかかったことに、気づいてしまった。
私は、机の上の書類を見つめたまま、しばらく動けなかった。

――これは、尊敬じゃない。
――これは、信頼だけでもない。

名前をつけてしまったら、もう戻れない種類の感情だ。
でも。
もう、気づいてしまった。
五条悟という人を、ただの上司として見ることが、できなくなっている。
仕事を終えて、高専の廊下を歩く。
さっき別れたばかりなのに、どこかでまた会えないかと、無意識に周囲を見ている自分に気づいて、少しだけ苦く笑った。

……本当に、良くない。

けれど。
胸の奥に残るその感情は、不思議と、嫌なものではなかった。
私は歩きながら、小さく息を整える。
この気持ちに、どう名前をつけるかは、まだ決めなくていい。
ただ。

――私は、あの人を。

そこまで考えて、言葉にする前に、思考を止めた。
今はまだ、胸の奥にしまっておく。
仕事をするために。
ちゃんと、自分の役目を果たすために。
それでも。
もう、何もなかった頃には、戻れないのだと。
私は、それだけは、はっきりとわかっていた。