今回の任務は、想定よりもずっと静かに終わった。
術式の残穢の確認、現場の封鎖、関係各所への連絡。
窓である久良伎リョウは、いつも通り無駄のない手順でそれらを片付けていく。
疲労の色は確かにあるのに、仕事の精度は落ちない。
五条悟は、少し離れた場所からその背中を眺めていた。
――無茶はしない。けど、相変わらず無理はする。
――しかも、自覚が薄い。
だから目に付く。
そこへ、同じ窓の職員が近づいてきた。最近配属された男だ。
「お疲れさまです。今日も手際いいですね」
「ありがとうございます。そちらも連絡回り、助かりました」
事務的な会話。
だが、相手はそのまま半歩踏み込む。
「このあと、少し時間あります? よかったら、軽く食事でも」
一瞬、リョウの手が止まる。
「今日は、報告書をまとめないといけないので……」
「少しだけでも。すぐ終わるでしょうし」
――ああ、こういうのに弱い。
五条は、ほとんど反射で口を挟んだ。
「お疲れ様」
二人が同時にこちらを見る。
「その人、僕が引き受けていい? 報告もしなきゃなんないしさ」
「え? でも——」
「僕の案件だし。いいでしょ?」
軽い言い方のくせに、拒否を許さない圧がある。
男は一瞬言葉に詰まり、空気を読んだ顔で頷いた。
「……分かりました。お疲れさまでした」
足早に去っていく背中を見送ってから、五条は小さく息を吐く。
それから、リョウを見る。
「今日はもう上がりね」
「でも、報告書が……」
「僕がやるよ。君、もう集中力落ちてきてるでしょ」
言い切られて、リョウは小さく頷いた。
高専に戻り、五条の私室へ向かう。
「書類の整理」という名目で入ったが、実際には少しだけ事務作業をしただけで、部屋にはすぐ静けさが落ちた。
リョウはソファの端に座り、落ち着かない様子で手を組んでいる。
五条はその様子を見てから口を開いた。
「さっきの」
「……はい」
「もしかして、誘われてた?」
「……仕事の延長だと思いますが」
「明らかに、そういう話の雰囲気じゃなかったよね」
ゆっくり視線を向ける。
「君、自分がどう見られてるか、あんまり分かってないでしょ」
「……そう、でしょうか」
「うん。だいぶ」
少し間を置いて、続ける。
「まあ、リョウらしいとは思うけど」
彼女は視線を伏せた。
「そんなつもりは……」
「わかってる」
即答だった。
「君は、そういう計算するタイプじゃない」
一歩、距離を詰める。
リョウがわずかに身を引くのを見て、そこで止まる。
「でもね」
声は穏やかだった。
「君の前にいるときの僕も、あの男と大して変わらないって言ったら、どうする?」
一瞬、彼女がきょとんとする。
五条は小さく息を吐いた。
「……自分でも、結構必死だなって思うよ」
それから、少しだけ視線を逸らす。
ほんの一拍置いて、また彼女を見る。
「……これ以上、誤魔化すのも違うか」
それは、投げやりというより、何かを決めた声だった。
「……冗談抜きで、好きなんだ。リョウのこと」
沈黙。
リョウは言葉を失ったまま、目を見開いている。
「……え……?」
五条は少しだけ肩をすくめる。
「今まで、距離保ってたの、正直ミスだったなって思ってる。さっきみたいなのも、あんまり見たくない」
視線を逸らさずに、続ける。
リョウはまだ答えを探している。
五条はそれを待ちながら、視線を逸らさない。
「返事は、今すぐじゃなくていいから」
言い切ってから、五条はそれ以上何も言わなかった。
部屋には、エアコンの微かな作動音と、遠くの廊下の気配だけが残る。
リョウはまだ視線を伏せたまま、動かない。
五条は、それを急かさなかった。
——今までだって、ずっとそうだった。
彼女は、即断即決するタイプじゃない。
仕事でも、何でも、一度受け止めてから、きちんと考える。
だからこそ、今ここで答えを求めるつもりはなかった。
ただ、もう——引き返さないと決めただけだ。
五条は一歩距離を取り、軽く肩をすくめる。
「今日はここまで。送るよ」
それは、いつもと変わらない調子の声だった。
けれど、リョウがドアに向かう背中を見送る視線は、もう以前と同じではない。
——もう、線は引いた。
あとは、向こうがどう考えるか、それだけだ。
五条悟はそう思いながら、静かに部屋の扉を閉めた。