8.線を越えた先に

今回の任務は、想定よりもずっと静かに終わった。
術式の残穢の確認、現場の封鎖、関係各所への連絡。
窓である久良伎リョウは、いつも通り無駄のない手順でそれらを片付けていく。
疲労の色は確かにあるのに、仕事の精度は落ちない。
五条悟は、少し離れた場所からその背中を眺めていた。

――無茶はしない。けど、相変わらず無理はする。
――しかも、自覚が薄い。

だから目に付く。
そこへ、同じ窓の職員が近づいてきた。最近配属された男だ。

「お疲れさまです。今日も手際いいですね」
「ありがとうございます。そちらも連絡回り、助かりました」

事務的な会話。
だが、相手はそのまま半歩踏み込む。

「このあと、少し時間あります? よかったら、軽く食事でも」

一瞬、リョウの手が止まる。

「今日は、報告書をまとめないといけないので……」
「少しだけでも。すぐ終わるでしょうし」

――ああ、こういうのに弱い。

五条は、ほとんど反射で口を挟んだ。

「お疲れ様」

二人が同時にこちらを見る。

「その人、僕が引き受けていい? 報告もしなきゃなんないしさ」
「え? でも——」
「僕の案件だし。いいでしょ?」

軽い言い方のくせに、拒否を許さない圧がある。
男は一瞬言葉に詰まり、空気を読んだ顔で頷いた。

「……分かりました。お疲れさまでした」

足早に去っていく背中を見送ってから、五条は小さく息を吐く。
それから、リョウを見る。

「今日はもう上がりね」
「でも、報告書が……」
「僕がやるよ。君、もう集中力落ちてきてるでしょ」

言い切られて、リョウは小さく頷いた。
高専に戻り、五条の私室へ向かう。
「書類の整理」という名目で入ったが、実際には少しだけ事務作業をしただけで、部屋にはすぐ静けさが落ちた。
リョウはソファの端に座り、落ち着かない様子で手を組んでいる。
五条はその様子を見てから口を開いた。

「さっきの」
「……はい」
「もしかして、誘われてた?」
「……仕事の延長だと思いますが」
「明らかに、そういう話の雰囲気じゃなかったよね」

ゆっくり視線を向ける。

「君、自分がどう見られてるか、あんまり分かってないでしょ」
「……そう、でしょうか」
「うん。だいぶ」

少し間を置いて、続ける。

「まあ、リョウらしいとは思うけど」

彼女は視線を伏せた。

「そんなつもりは……」
「わかってる」

即答だった。

「君は、そういう計算するタイプじゃない」

一歩、距離を詰める。
リョウがわずかに身を引くのを見て、そこで止まる。

「でもね」

声は穏やかだった。

「君の前にいるときの僕も、あの男と大して変わらないって言ったら、どうする?」

一瞬、彼女がきょとんとする。
五条は小さく息を吐いた。

「……自分でも、結構必死だなって思うよ」

それから、少しだけ視線を逸らす。
ほんの一拍置いて、また彼女を見る。

「……これ以上、誤魔化すのも違うか」

それは、投げやりというより、何かを決めた声だった。

「……冗談抜きで、好きなんだ。リョウのこと」

沈黙。
リョウは言葉を失ったまま、目を見開いている。

「……え……?」

五条は少しだけ肩をすくめる。

「今まで、距離保ってたの、正直ミスだったなって思ってる。さっきみたいなのも、あんまり見たくない」

視線を逸らさずに、続ける。
リョウはまだ答えを探している。
五条はそれを待ちながら、視線を逸らさない。

「返事は、今すぐじゃなくていいから」

言い切ってから、五条はそれ以上何も言わなかった。
部屋には、エアコンの微かな作動音と、遠くの廊下の気配だけが残る。
リョウはまだ視線を伏せたまま、動かない。
五条は、それを急かさなかった。

——今までだって、ずっとそうだった。

彼女は、即断即決するタイプじゃない。
仕事でも、何でも、一度受け止めてから、きちんと考える。
だからこそ、今ここで答えを求めるつもりはなかった。
ただ、もう——引き返さないと決めただけだ。
五条は一歩距離を取り、軽く肩をすくめる。

「今日はここまで。送るよ」

それは、いつもと変わらない調子の声だった。
けれど、リョウがドアに向かう背中を見送る視線は、もう以前と同じではない。

——もう、線は引いた。

あとは、向こうがどう考えるか、それだけだ。
五条悟はそう思いながら、静かに部屋の扉を閉めた。