任務を終え、高専へ戻るための道を歩いていると、空はすでに夕暮れの名残りを手放しかけていた。建物の隙間を通るわずかな光だけが、街の輪郭をかろうじて繋ぎとめている。
駅前へ続く通りには、人の流れが途切れることなく続いていた。仕事帰りの気だるい足取りや、買い物袋を提げた人影、さらには店先からこぼれる光や匂いなど、それらが混ざり合って、どこか落ち着かない雑踏を作っている。
その中を、五条と陽毬は並んで歩いていた。
最近、この組み合わせで任務に出ることが増えた。五条はポケットに手を突っ込んだまま、隣を進む小さな気配に一度だけ視線を落とす。触れない距離ではあるが、わざわざ離れているわけでもない。今の二人にとって無理のない位置だった。会話は途切れがちだが、沈黙が苦になるほどでもない。それだけで、以前とは明らかに違っていた。
「……今日の任務、だいぶ安定してたな」
ふと、五条が口を開く。陽毬は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせ、それから少しだけ視線を落としながら、控えめに答える。
「はい……その、すごくやりやすかったです」
言葉を選ぶように、陽毬はゆっくりと続ける。
「五条先輩が前にいてくれると、安心して術式を回せるというか……無理に合わせなくても、自然に噛み合う感じがして」
言い終えてから、ほんの少しだけ照れたように笑う。その仕草に一瞬だけ視線を止めてから、五条は肩をすくめて軽く目を細めた。
「そりゃどーも」
それ以上は言わなかった。けれど、胸の奥に小さなあたたかさが残る。
そのまま歩みを進めていくと、人の流れが少しだけ密になった。交差点に近づき、足が自然と緩む。そのときだった。
「ふざけんなって言ってんだろ!!」
鋭く弾けるような怒鳴り声が、空気を切り裂いた。ほぼ同時に、何かが地面に叩きつけられ、割れたような乾いた音が辺りに響く。
反射的に視線を向けると、通りの端で男が誰かに詰め寄っていた。腕の振り方も声の張り方も荒く、感情のまま吐き出されているのがわかる。足元には、粉々に砕け散ったガラスが散乱していた。
ただの口論だろう。通りすがりに見かけることのある類のもので、こちらにはなんの関係もない。そう判断するのに時間はかからなかった。
——けれど、隣の気配が、唐突に途切れた。
さっきまで確かにあった足音が消え、振り向いた先で、陽毬はその場に立ち尽くしたまま動けなくなっていた。視線は定まらず、顔色は一気に血の気を失い、呼吸は浅く速くなり、胸と肩がせわしなく上下している。
その様子を見た瞬間に、五条はすべてを理解していた。理屈ではなく、これまで見てきたものの現象として。
「陽毬」
呼びかけても、反応は返ってこない。それどころか視線すら合わなかった。完全に引き込まれている。
(……まずいな)
そう思った時には、もう体が動いていた。一歩踏み込み、そのまま陽毬の手首をつかむ。迷いはなかった。
「こっち来い」
短く言って、人の流れから外れる方向へ歩き出す。強くはないが、確実に導く力だった。陽毬の体は一拍遅れてついてきて、抵抗も拒絶もないまま、五条の手に引かれていく。
通りのざわめきから外れ、細い路地裏へと入り込むと、喧騒は嘘のように遠ざかり、さっきまで耳に刺さっていた怒鳴り声も、もう届かなくなっていた。建物の陰に入ったところで、五条は足を止める。
「……ここでいいな」
そう言いながらも、手は離さなかった。
陽毬は力が抜けたようにその場にしゃがみ込み、膝を抱えるようにして小さくなる。呼吸は乱れたまま、うまく空気を吸えていなかった。浅く、速く、どうにか息をしようとしているのに、それが体に入っていかないような不安定さが、握っている手越しにじわじわと伝わってくる。
五条はそのまま少し距離を取るように膝を折り、触れているのは手だけという状態を保ったまま、低く声を落とした。
「……いいから、息しろ。ゆっくりでいい。吸って、吐け」
余計な言葉は足さず、リズムだけを示すように、静かに繰り返す。それでも、陽毬の呼吸はすぐには整わなかった。何度も浅い呼吸を繰り返し、そのたびに肩が小さく揺れる。
「……すみません」
かすれた声が落ちる。その言葉は一度では終わらず、呼吸の合間に何度も繰り返された。
「……すみません……」
五条は軽く眉をひそめる。
「なにが」
短く返す。陽毬は言葉を探そうとするが、うまく声にならないようだった。
「ご迷惑を……」
そのまま途切れる。それを聞いて、五条は一拍だけ間を置き、それから低く言った。
「だから、なにに対してだよ」
返事はない。ただ、握っている手にかかる力が、ほんのわずかに強くなる。無意識なのか、それとも縋るような動きなのか、その境界は曖昧だった。
「別に俺、困ってねぇけど」
視線は合わせないまま、淡々と続ける。
「お前が動けなくても、なにも減らねぇし」
それは慰めでも励ましでもなく、ただ事実を述べているだけのような声音だったが、その分だけ嘘がなく、余計な意味を含まずに、まっすぐに落ちていく。
しばらくの沈黙のあと、陽毬の呼吸がわずかに変わる。浅く速かったそれが、ほんの少しだけ間を持ち始める。それでもまだ不安定で、完全には戻らない。
「……怖いんです」
ようやく形になった声が発せられる。
「わかってるのに、大丈夫だって思ってるのに、体が勝手に……」
言葉が途切れる。五条は何も言わなかったが、手は離さなかった。急かさず、否定せず、陽毬のそのままの状態を受け入れるように、その場に留まっている。
時間がゆっくりと流れる。やがて陽毬は、小さく息を吐いた。
「……今は、大丈夫です」
かすれた声だったが、先ほどよりは確かだった。五条はわずかに目を細める。
「そりゃよかった」
そっけなく返しながらも、すぐには手を離さず、陽毬の指先の力が抜けていくのを確かめてから、ようやく何事もなかったかのようにその手をほどいた。
「……戻るぞ」
そう言って立ち上がる。陽毬も、息を整えてから立ち上がった。さっきよりも、ほんのわずかに距離が近い。意識していないのに、自然とそうなっているような距離だった。
並んで歩き出すと、もう怒鳴り声は聞こえなかった。さっきまであれほど近くにあったはずのざわめきも、喧騒も、嘘みたいに遠ざかっていて、代わりに耳に残るのは、互いの足音と、夜へと変わりつつある街の、静かな気配だけだった。
それでも、陽毬の胸の奥には、確かに何かが残っていた。怖さは消えていないし、これからも完全になくなることはないのかもしれない。ああいう声も、ああいう空気も、これから先も恐らく何度でも自分を縛るのだろうと、冷静に理解している部分があった。
それでも——あのとき、握られていた手の感触だけが、不思議なほど鮮明に残っている。引かれるままに連れていかれたはずなのに、無理やりという感じはまるでなかった。ただ、そこに”迷いのない力”だけがあった。離されず、逃げ場を奪うのではなく、逃げてもいい場所へ連れて行かれたような、そんなあたたかな感覚。
怖くなかった、と思ったのは、多分初めてだった。それがどうしてなのか、まだうまく説明はできない。
優しかったから、ではなくて。守られたから、でもない。もっと別の、言葉にするにはまだ曖昧ななにかが、確かにそこにあった。
隣を歩く気配が、いつもより少しだけ近い。さっきまでと同じ距離のはずなのに、どうしてか遠いとは思わなかった。その理由を考えようとして、やめる。きっとまだ、言葉にしてしまうには早いのだと、なんとなく思った。
けれど、それでも、昨日までとは違うものが、自分の中に生まれていることだけは、確かにわかる。それがなんなのか、名前はまだないまま、ただ陽毬の中に静かに存在していた。