夕方の高専は、昼間とはまるで別の場所みたいに静まり返る。
人の気配が薄れて、建物の影が長く伸びて、校舎全体がゆっくりと夜に沈んでいく時間帯だった。
訓練場の砂埃も、廊下の足音も、いつのまにか消えている。
残るのは、風が木々を撫でる音と、どこか遠くで鳴く鳥の声だけだ。
中庭の古いベンチに、五条悟は背中を預けていた。
長い脚を投げ出し、紙パックの甘ったるいコーヒー牛乳を無造作に啜る。
任務帰りの疲労はあるはずなのに、妙に頭が冴えていて、目を閉じても眠気が落ちてこない。
こういう中途半端な時間が、いちばん苦手だった。
何かをするには遅すぎて、何もしないには思考がうるさすぎる。
ぼんやりと空を眺める。
群青色の空に、薄い雲が流れていく。
その隙間を、昨日の記憶が勝手にすり抜けていった。
パンケーキの甘い匂い。
フォークを持つ細い指。
「おいしいです」と、遠慮がちに笑った横顔。
――やけに鮮明だ。
五条は小さく舌打ちした。
別に、特別な一日だったわけではない。
ただ甘いものを食って、少し話して、歩いて帰っただけだ。
それなのに、どうしてこんなにも細部まで思い出せるのか、自分でも理解できなかった。
「悟」
背後から、聞き慣れた声が落ちてくる。
振り返るまでもない。
「……傑か」
夏油傑が、缶コーヒーを片手に隣へ腰を下ろした。
ベンチが軽く軋む。
夕方の空気に、缶を開ける乾いた音が溶けた。
「珍しいね。ひとり?」
「別に」
「別に、の顔してないけど」
「どんな顔だよ」
「魂抜けてる顔」
失礼なことをさらっと言う。
昔からこういう男だ。
人の機微をやたらと拾うくせに、遠慮という言葉を知らない。
しばらく二人で黙ったまま風を聞いた。
気まずさはない。
ただ、言葉が必要ないだけだ。
その沈黙を、夏油がふと破る。
「……最近さ」
何でもない世間話みたいな調子だった。
「陽毬ちゃんとよく一緒にいるよね」
あまりにも自然に言われて、五条は一瞬だけ反応が遅れた。
「そうか?」
「うん。任務もだし、買い出しもだし、昨日は二人で歩いてるところを見かけたよ」
「見てんじゃねーよ」
「目立つんだよ、君ら」
苦笑まじりの声。
からかうでもなく、責めるでもない。
ただ事実を並べるだけの言い方だった。
興味のない人間とは必要最低限しか関わらない。
それが五条の性分だ。
名前も覚えないし、顔も見ない。
そもそも視界に入らない。
なのに。
陽毬だけは、なぜか違った。
気づけば話しかけている。
隣に立っている。
何を食べるのかとか、そんな些細なことまで聞いている。
理由を問われると、途端に説明できなくなる。
「……珍しいよね」
夏油がぽつりと言った。
「悟が、あんなに同じ子と長く一緒にいるの」
五条は返事をしなかった。
否定できなかったからだ。
少しの間を置いて、夏油が横目で笑う。
「好きなんじゃないの?」
軽い。
冗談みたいに軽い言い方だった。
けれど。
その一言が、妙に真っ直ぐ胸の奥へ落ちた。
好き。
その言葉を頭の中で転がしてみる。
任務中、後ろに陽毬がいると妙にやりやすいこと。
隣で笑っていると、なぜか気分が軽くなること。
無事だと、無条件でほっとすること。
全部、当たり前みたいに感じていた感情が、急にひとつの線で繋がる。
「あー……」
空を仰ぐ。
夕焼けの色が、ゆっくりと夜に溶けていく。
少し考えて。
本当に、少しだけ考えて。
「……かもな」
夏油が眉を上げる。
「ん?」
五条は肩を回しながら、何でもないことみたいに言った。
「俺、陽毬のこと好きかも」
驚くほど静かな声だった。
動揺も照れもない。
ただ、事実確認みたいな口調。
夏油が思わず吹き出す。
「そんなサラッと言う?」
「だってそうだろ」
「もうちょっと葛藤とかさ」
「めんどくせぇ」
本心だった。
好きか嫌いかと問われたら、好き。
それだけだ。
無理して理由を探すほど複雑な感情でもない。
ただ、隣にいると楽で、目が勝手に追ってしまって、笑っていると嬉しい。
それだけの話だった。
名前をつけた瞬間、妙に視界が澄んだ。
霧が晴れたみたいに。
だからか、と腑に落ちる。
放っておけなかった理由も。
構いたくなる理由も。
隣にいると落ち着く理由も。
全部、きれいに説明がつく。
「……そっか」
夏油が柔らかく笑う。
「やっと自覚したんだね」
「やっとってなんだよ」
「見てればわかるよ、あれは」
舌打ちする。
そんなにわかりやすかったのかと思うと、少し癪だ。
けれど、不思議と悪い気分ではなかった。
立ち上がる。
足取りがやけに軽い。
気づいてしまった以上、もう前と同じではいられないだろう。
たぶんこれから、もっと露骨に隣にいるし、もっと自然に名前を呼ぶ。
それを想像して、五条は小さく笑った。
「……まぁ、いいか」
夕闇の中、長い影を引きずりながら、校舎へ戻っていく。
胸の奥に芽生えたばかりの感情は、まだ形も曖昧なくせに、妙に温かかった。
夜風が、やけに心地よかった。