8.放課後の内緒話

夕方の高専は、昼間とはまるで別の場所みたいに静まり返る。

人の気配が薄れて、建物の影が長く伸びて、校舎全体がゆっくりと夜に沈んでいく時間帯だった。

訓練場の砂埃も、廊下の足音も、いつのまにか消えている。
残るのは、風が木々を撫でる音と、どこか遠くで鳴く鳥の声だけだ。
 
中庭の古いベンチに、五条悟は背中を預けていた。

長い脚を投げ出し、紙パックの甘ったるいコーヒー牛乳を無造作に啜る。

任務帰りの疲労はあるはずなのに、妙に頭が冴えていて、目を閉じても眠気が落ちてこない。

こういう中途半端な時間が、いちばん苦手だった。
何かをするには遅すぎて、何もしないには思考がうるさすぎる。
 
ぼんやりと空を眺める。
群青色の空に、薄い雲が流れていく。
その隙間を、昨日の記憶が勝手にすり抜けていった。

パンケーキの甘い匂い。
フォークを持つ細い指。
「おいしいです」と、遠慮がちに笑った横顔。

――やけに鮮明だ。

五条は小さく舌打ちした。
別に、特別な一日だったわけではない。
ただ甘いものを食って、少し話して、歩いて帰っただけだ。
それなのに、どうしてこんなにも細部まで思い出せるのか、自分でも理解できなかった。
 
「悟」
 
背後から、聞き慣れた声が落ちてくる。
振り返るまでもない。

「……傑か」
 
夏油傑が、缶コーヒーを片手に隣へ腰を下ろした。
ベンチが軽く軋む。
夕方の空気に、缶を開ける乾いた音が溶けた。
 
「珍しいね。ひとり?」
「別に」
「別に、の顔してないけど」
「どんな顔だよ」
「魂抜けてる顔」
 
失礼なことをさらっと言う。
昔からこういう男だ。
人の機微をやたらと拾うくせに、遠慮という言葉を知らない。
 
しばらく二人で黙ったまま風を聞いた。
気まずさはない。
ただ、言葉が必要ないだけだ。
 
その沈黙を、夏油がふと破る。
 
「……最近さ」
 
何でもない世間話みたいな調子だった。

「陽毬ちゃんとよく一緒にいるよね」
 
あまりにも自然に言われて、五条は一瞬だけ反応が遅れた。

「そうか?」
「うん。任務もだし、買い出しもだし、昨日は二人で歩いてるところを見かけたよ」
「見てんじゃねーよ」
「目立つんだよ、君ら」
 
苦笑まじりの声。
からかうでもなく、責めるでもない。
ただ事実を並べるだけの言い方だった。
 
興味のない人間とは必要最低限しか関わらない。
それが五条の性分だ。
名前も覚えないし、顔も見ない。
そもそも視界に入らない。
 
なのに。
陽毬だけは、なぜか違った。
 
気づけば話しかけている。
隣に立っている。
何を食べるのかとか、そんな些細なことまで聞いている。
 
理由を問われると、途端に説明できなくなる。
 
「……珍しいよね」

夏油がぽつりと言った。

「悟が、あんなに同じ子と長く一緒にいるの」
 
五条は返事をしなかった。
否定できなかったからだ。
 
少しの間を置いて、夏油が横目で笑う。

「好きなんじゃないの?」
 
軽い。
冗談みたいに軽い言い方だった。
 
けれど。
その一言が、妙に真っ直ぐ胸の奥へ落ちた。
 
好き。
 
その言葉を頭の中で転がしてみる。
 
任務中、後ろに陽毬がいると妙にやりやすいこと。
隣で笑っていると、なぜか気分が軽くなること。
無事だと、無条件でほっとすること。
 
全部、当たり前みたいに感じていた感情が、急にひとつの線で繋がる。
 
「あー……」
 
空を仰ぐ。
夕焼けの色が、ゆっくりと夜に溶けていく。
 
少し考えて。
本当に、少しだけ考えて。
 
「……かもな」
 
夏油が眉を上げる。

「ん?」
 
五条は肩を回しながら、何でもないことみたいに言った。
 
「俺、陽毬のこと好きかも」
 
驚くほど静かな声だった。
動揺も照れもない。
ただ、事実確認みたいな口調。
 
夏油が思わず吹き出す。

「そんなサラッと言う?」
「だってそうだろ」
「もうちょっと葛藤とかさ」
「めんどくせぇ」
 
本心だった。
好きか嫌いかと問われたら、好き。
それだけだ。
 
無理して理由を探すほど複雑な感情でもない。
ただ、隣にいると楽で、目が勝手に追ってしまって、笑っていると嬉しい。
それだけの話だった。
 
名前をつけた瞬間、妙に視界が澄んだ。
霧が晴れたみたいに。
 
だからか、と腑に落ちる。
放っておけなかった理由も。
構いたくなる理由も。
隣にいると落ち着く理由も。
 
全部、きれいに説明がつく。
 
「……そっか」

夏油が柔らかく笑う。

「やっと自覚したんだね」
「やっとってなんだよ」
「見てればわかるよ、あれは」
 
舌打ちする。
そんなにわかりやすかったのかと思うと、少し癪だ。
 
けれど、不思議と悪い気分ではなかった。
 
立ち上がる。
足取りがやけに軽い。
 
気づいてしまった以上、もう前と同じではいられないだろう。
たぶんこれから、もっと露骨に隣にいるし、もっと自然に名前を呼ぶ。
 
それを想像して、五条は小さく笑った。
 
「……まぁ、いいか」
 
夕闇の中、長い影を引きずりながら、校舎へ戻っていく。
胸の奥に芽生えたばかりの感情は、まだ形も曖昧なくせに、妙に温かかった。
 
夜風が、やけに心地よかった。