任務はとうに片づいていた。
特別厄介な案件だったわけでもなく、危険な場面があったわけでもない。ただ書類上の後処理がいくつか残っているだけで、報告書を職員室に提出してしまえば今日の仕事は終わる。
そんな中途半端な時間を持て余しながら、五条悟は校舎の廊下を気だるげに歩いていた。
夕方の光が長く伸びている。窓から差し込んだ西日が床を橙色に染め、足音までもやわらかく吸い込んでいく。騒がしいはずの高専が、時間帯のせいか妙に静かで、世界が一枚薄い膜に包まれているみたいだった。
急ぐ理由はない。かといって、寮に戻る気分でもない。だから、なんとなく歩いている。それだけだ。
角を曲がったところで、視界の先に人影が三つ重なった。見覚えのある長身が二人。夏油傑と、家入硝子だ。
その向かいに、もう一人。小柄な背中が、書類の束を胸に抱えている。
小日向陽毬だった。
三人で何か話しているらしい。廊下で先輩後輩が立ち止まって雑談しているだけの、どうということもない光景だ。
それなのに、なぜか足が止まった。自分でも理由がわからないまま、視線だけがそこに引っかかる。
夏油が穏やかに笑い、家入が気のない相槌を打つ。それに応えるように、陽毬がふっと笑った。力の抜けた、自然な笑みだった。
任務中に見せる緊張した横顔でもなく、自分の前でいつも固まっているあのぎこちない表情でもない。ただの、年相応の少女の顔。
あんなふうに笑うのか、と、どうでもいい感想が五条の脳裏に浮かぶ。浮かんだ瞬間、それを考えた自分に軽く苛立った。
別に知りたいわけでもないだろうに。興味があるみたいで、気分が悪くなる。そう思いながら、気づけば足はそのまま三人の方へ向かっていた。
「何してんの」
特に意味もなく声をかける。三人が振り向いた。
そして、その中で一人だけ、空気がはっきり変わる。陽毬の肩が強張る。目が泳ぎ、半歩だけ後ろへ下がる。さっきまでの柔らかい雰囲気が、一瞬で消えた。
「お、お疲れさまです……!」
必要以上に丁寧な敬語を遣われた。声も緊張からか、少し上ずっている。露骨すぎて、逆に引くような態度だった。
「……は?」
五条から、思わず間の抜けた声が出た。今日は、自分は怒鳴ってもいない。不用意に近づいてもいない。ただ普通に話しかけただけだ。それなのにこんな反応をされてしまった。
横で、それに気付いた家入が笑う。
「五条だけ怖がられてんじゃん」
「うるせぇ」
夏油も苦笑して肩を揺らす。
「悟は圧が強いんだよ」
「んだよ、その言い方……」
本気で意味がわからなかった。さっきまで二人とは普通に喋っていたくせに、なんで俺にだけこんな反応が返ってくるのか。
胸の奥がざらついた。苛立ちに似ているが、それだけでは説明がつかない感覚だった。面倒くさくなって踵を返す。
「……報告書、出してくる」
誰に言うでもなく呟いて歩き出す。数歩進んでから、後ろに足音が増えた。小さくて、遠慮がちな足音だ。一定の距離を保ったまま、律儀についてくる。
放っておけば、すぐ置いていけるはずだった。いつもの歩幅で歩けば、差は自然に開く。なのに、なぜか速度が上がらない。気づけば、無意識に足が緩んでいた。
自分でも理由がわからず、思わず舌打ちする。
(……遅ぇんだよ)
心の中で悪態をつくくせに、結局ペースは変わらない。後ろの足音が途切れないことを、どこかで確かめている自分がいる。
本当に、意味がわからない。怖がられている相手に合わせて歩くとか、何をやっているのか。嘆息したそのとき。
「あ、あの……五条先輩」
かすれた声が、後ろから届いた。珍しく、向こうから呼び止めてくる。足が止まる。
「……何」
振り返らずに返す。少し間が空いたあと、ためらうように続いた。
「私も……その、報告書、出しに行くので……」
言葉が途切れる。息を整える気配がする。そして、ほんの少し勇気を振り絞るみたいに、
「……一緒に行っても、いいですか」
小さな声が落ちた。思わず、眉がわずかに動く。意味がわからなかった。さっきまであんなに距離を取ってたくせに、なんで急に。
「……勝手にすれば」
ぶっきらぼうにそう言って、五条はまた歩き出した。許可したつもりはない。だが断る理由もない。ただ、それだけだ。
少し後ろで、ほっとしたような足音が続く。その気配が、なぜかさっきより近く感じた。
(……ほんと意味わかんねぇ)
胸の奥に残るざらつきが、今度は少しだけ、違う形に変わっている気がした。理由はやっぱり、説明できなかった。