3.友愛・執着・憐憫・エトセトラ

任務はとうに片づいていた。

特別厄介な案件だったわけでもなく、危険な場面があったわけでもない。

ただ書類上の後処理がいくつか残っているだけで、報告書を職員室に提出してしまえば今日の仕事は終わる。

そんな中途半端な時間を持て余しながら、五条悟は校舎の廊下を気だるげに歩いていた。

夕方の光が長く伸びている。
窓から差し込んだ西日が床を橙色に染め、足音までもやわらかく吸い込んでいく。

騒がしいはずの高専が、時間帯のせいか妙に静かで、世界が一枚薄い膜に包まれているみたいだった。

急ぐ理由はない。
かといって、寮に戻る気分でもない。

だから、なんとなく歩いている。
それだけだ。

角を曲がったところで、視界の先に人影が三つ重なった。

見覚えのある長身が二人。
夏油傑と、家入硝子。

その向かいに、もう一人。
小柄な背中が、書類の束を胸に抱えている。

小日向陽毬だった。

三人で何か話しているらしい。
廊下で先輩後輩が立ち止まって雑談しているだけの、どうということもない光景だ。

それなのに、なぜか足が止まった。
自分でも理由がわからないまま、視線だけがそこに引っかかる。

夏油が穏やかに笑い、家入が気のない相槌を打つ。

それに応えるように、陽毬がふっと笑った。
力の抜けた、自然な笑みだった。

任務中に見せる緊張した横顔でもなく、自分の前でいつも固まっているあのぎこちない表情でもない。
ただの、年相応の少女の顔。

あんなふうに笑うのか、と、どうでもいい感想が浮かぶ。
浮かんだ瞬間、それを考えた自分に軽く苛立った。

別に知りたいわけでもないだろうに。
興味があるみたいで、気分が悪い。

そう思いながら、気づけば足はそのまま三人の方へ向かっていた。

「何してんの」

特に意味もなく声をかける。
三人が振り向いた。

そして、その中で一人だけ、空気がはっきり変わる。
陽毬の肩が強張る。
目が泳ぎ、半歩だけ後ろへ下がる。
さっきまでの柔らかい雰囲気が、一瞬で消えた。

「お、お疲れさまです……!」

必要以上に丁寧な敬語。
声も少し上ずっている。
露骨すぎて、逆に引く。

「……は?」

思わず間の抜けた声が出た。
怒鳴ってもいない。
近づいてもいない。
ただ話しかけただけだ。
それなのにこの反応。

横で家入が笑う。

「五条だけ怖がられてんじゃん」
「うるせぇ」

夏油も肩を揺らす。

「悟は圧が強いんだよ」
「んだよ、その言い方……」

本気で意味がわからない。
さっきまで二人とは普通に喋っていたくせに、なんで俺だけ。

胸の奥がざらついた。
苛立ちに似ているが、それだけでは説明がつかない感覚だった。

面倒くさくなって踵を返す。

「……報告書、出してくる」

誰に言うでもなく呟いて歩き出す。
数歩進んでから、後ろに足音が増えた。

小さくて、遠慮がちな足音。
一定の距離を保ったまま、律儀についてくる。

放っておけば、すぐ置いていけるはずだった。
いつもの歩幅で歩けば、差は自然に開く。

なのに、なぜか速度が上がらない。
気づけば、無意識に足が緩んでいる。

自分でも理由がわからない。
舌打ちする。

(……遅ぇんだよ)

心の中で悪態をつくくせに、結局ペースは変わらない。
後ろの足音が途切れないことを、どこかで確かめている自分がいる。

ほんと、意味がわからない。
怖がられている相手に合わせて歩くとか、何やってんだ。
そのとき。

「あ、あの……五条先輩」

かすれた声が、後ろから届いた。
珍しく、向こうから呼び止めてくる。
足が止まる。

「……何」

振り返らずに返す。
少し間が空いたあと、ためらうように続く。

「私も……その、報告書、出しに行くので……」

言葉が途切れる。
息を整える気配。
そして、ほんの少し勇気を振り絞るみたいに、

「……一緒に行っても、いいですか」

小さな声が落ちた。
思わず、眉がわずかに動く。

意味がわからない。
さっきまであんなに距離を取ってたくせに。
なんで急に。

「……勝手にすれば」

ぶっきらぼうにそう言って、また歩き出す。

許可したつもりはない。
断る理由もない。
ただ、それだけだ。

少し後ろで、ほっとしたような足音が続く。
その気配が、なぜかさっきより近く感じた。

(……ほんと意味わかんねぇ)

胸の奥に残るざらつきが、今度は少しだけ、違う形に変わっている気がした。

理由はやっぱり、説明できなかった。