5.雨の日に聞こえた少女のラメント

任務が二人編成になると聞かされたとき、五条は露骨に顔をしかめた。

高専の職員室で、分厚い書類の束を半ば強引に押しつけられながら、思わず素の声が漏れる。

「……は? 俺?」

間の抜けた問い返しにも、担当の補助監督は表情ひとつ変えなかった。

遠方任務であること、対象が広範囲に呪力を撒き散らすタイプの呪霊であること、そして安定化の術式があれば制圧効率が飛躍的に上がることを、淡々と事務的に説明してくる。

要するに、五条の火力と、陽毬の呪力制御。
その組み合わせありきで組まれた任務、というわけだった。

理解した瞬間、口の奥で小さく舌打ちが鳴る。

面倒だとは思う。
だが同時に、断るという選択肢が最初から頭に浮かんでいない自分にも気づいていた。

廊下へ出ると、少し先に陽毬の姿がある。
任務資料を胸に抱え込み、こちらの気配に気づくと、反射みたいに小さく頭を下げた。

「五条先輩、よろしくお願いします」

まだどこか硬さの残る声だったが、逃げる気配はない。

以前のように七海や灰原の背に隠れることもなく、自分の足でそこに立っている。
たったそれだけの変化に、胸の奥の空気がわずかに軽くなる。

(……まぁ、マシにはなったか)

そう思ってしまった自分に、理由のわからない苛立ちを覚えながら、五条は視線を逸らした。



現地は山間部の古い温泉街だった。

営業をやめた旅館や土産屋が軒を連ね、看板だけが色褪せて取り残されている。

人の気配が抜け落ちた町は、足音ひとつが妙に大きく反響し、空気まで乾いて聞こえるようだった。
低級呪霊が散発的に発生し、それらを餌に主が根を張っているらしい。

面倒な構図だが、やること自体は単純だった。

「俺が前に出る。陽毬は後ろで増幅」

短い指示に、

「はい」

と即座に返事が返る。
もう細かい説明はいらない。

言葉にしなくても、自然と立ち位置が決まる。
気づけばそれが当たり前になっていることに、五条は小さく眉を動かした。

戦闘は拍子抜けするほど早く終わった。

踏み込むたび、身体が軽い。
呪力が無駄なく巡り、術式が滑らかに回転する。

余計な引っかかりがひとつもない。
感覚だけで動いているのに、すべてが寸分違わず噛み合っていく。

(……やっぱ、やりやすい)

振り返ると、陽毬が静かに集中していた。

細い指先から流れ出る呪力は、相変わらず異様なほど澄んでいる。
乱れも濁りもなく、ただ均一に、静かに満ちている。
それが背中に触れているだけで、不思議と安心感があった。

主を祓い終えた直後、空の奥で低い雷鳴が転がった。
次の瞬間、叩きつけるような雨が一気に落ちてくる。
山の天気特有の、容赦のない降り方だった。

あっという間に道は川みたいに変わり、車も出せない。
帰還は不可能だと、その場で判断が下る。

「……一泊、ですね」

陽毬が小さく呟いた。

視線の先には、灯りの残った古い旅館がある。
術師向けに最低限だけ開放されている簡易宿泊所らしく、受付もなく、ほとんど避難所みたいな佇まいだった。

通されたのは、狭い和室がふたつ。
薄い襖一枚で仕切られているだけの、簡素な造り。

互いに視線を逸らしたまま、気まずい沈黙が落ちる。
五条は畳に荷物をどさりと置き、肩の力を抜いた。

「まぁ、しゃーねぇな。今日はここで」

それ以上は何も言わない。
変に気を遣えば、陽毬は余計に固まる。

どう接すればいいのか、その加減だけは、いつの間にか身体が覚えてしまっていた。



屋根を打つ水音が絶え間なく続き、古びた宿泊所の薄い天井を細かく震わせている。

山間部の夜は底が深く、窓の外には街灯もなく、闇はただ一様に広がって世界から色彩を奪っていた。

五条は敷きっぱなしの布団に仰向けになったまま、ぼんやりと天井を眺めている。

任務の疲労はあるはずなのに、どうにも眠気が訪れない。

襖一枚向こうにある気配が、その理由であることを、考えるまでもなく悟っていた。

布が擦れる、かすかな音。
寝返りのたびに揺れる呼吸。
浅く、落ち着かない気配が、雨音に混じって伝わってくる。

(……寝れてねぇな)

胸の奥でそう呟き、五条はゆっくりと身を起こした。

放っておけばいい。
そう思いながらも、足は勝手に襖の方へ向かっている。

自分でも説明のつかない衝動に、軽く舌打ちしながら、指先で控えめに襖を叩いた。

「陽毬」

名前を呼ぶと、すぐに中の気配が強張るのがわかる。
わずかに息を呑む音。
その反応を聞いた瞬間、胸のどこかが鈍く痛んだ。

「……はい」

返事は小さいが、はっきりしていた。
逃げるようではない、まっすぐこちらへ向いた声だった。

五条は襖を開けず、近くの壁に背中を預けて座り込む。

部屋に入らなかったのは、気遣いというより、身体が勝手にそうしただけだった。
不用意に近づけば、きっとまた固まらせてしまう。
その光景を想像するだけで、妙に居心地が悪い。

「……寝れねぇの?」

問いかける声は、思ったよりも低く、静かだった。

「少しだけ」

嘘を混ぜない声だった。
雨音がふたりの間を満たし、しばらく言葉が途切れる。

このまま黙って戻ってしまえば、きっと何事もなく夜は過ぎる。
それでも、胸の奥に引っかかった棘が、どうしても抜けない。

五条は視線を天井へ向けたまま、ゆっくりと口を開いた。

「……あのさ、前から聞いてみたかったんだけど」

小さく息を吸い込み、

「……俺のこと、そんなに怖い?」

口に出してから、らしくない質問だと気づく。

他人にどう思われているかなど、本来どうでもいいはずだった。
好かれようが嫌われようが、気にしたこともない。

それなのに、陽毬に限っては、どうしても同じように割り切れない。

襖の向こうで、気配が止まる。
言葉を探している沈黙だった。

「前に、七海から聞いたことあってさ」

自分でも意外なほど自然に、続きの言葉が出てくる。

「お前、男が怖いんだってな」

どうでもいいはずの話だったのに、なぜかずっと忘れられず、頭のどこかに引っかかり続けていた。

「だからまぁ……俺も怖がられてたら、普通にだるいなって」

ぶっきらぼうな言い方しかできない自分に、内心で苦笑する。

本当は、だるいなんて軽い感情ではない。
ただ、怖がられている姿を見るのが、思っていた以上に堪えるだけだ。

陽毬は、しばらく黙り込んだあと、ゆっくりと言葉を選ぶように語り始めた。

父親のことを。

呪いが見えるというだけで気味悪がられ、家の中では日常的に暴力や暴言を向けられてきたのだという。

淡々とした口調だったが、その奥には、長年染みついた恐怖が薄く沈殿していた。

五条は口を挟まない。
慰めの言葉など軽すぎるし、大丈夫だと言う資格も自分にはないような気がした。

だから何も言わず、ただ襖越しにその声を受け止めている。

「……だから、男の人に急に近づかれると、体が勝手に動かなくなって」

声がわずかに震えたところで、五条は目を閉じた。

どうにも手の届かない話だと思った。
怒鳴ってやりたい相手は、ここにはいない。

「……そっか」

結局、それしか言えない。
情けないほど素っ気ない相槌だったが、嘘を並べるよりは、よほどましだと感じた。

長い沈黙が落ちる。

やがて陽毬が小さく息を吐き、ためらいがちに続けた。

「……でも」

その一言に、五条は目を開く。

「五条先輩は、怖くないです」

思わず視線が襖へ向いた。

「びっくりは、しますけど……」

苦笑混じりの声が続く。

「本当は、ずっと憧れていたんです。ただ、どんなふうに接したらいいのか、わからなくて……」

胸の奥にじわりと熱が滲み、遅れて鼓動が一拍強く鳴った。

評価でも、お世辞でもない。
ただの事実みたいな言葉が、やけに深く刺さる。

「……そう、だったのか」

そっぽを向いたまま返す。
自分の声が少し掠れていることに気づいているのは、自分だけだった。

五条は立ち上がり、廊下の自販機で買ってきた温かい缶を持って戻る。

襖を少しだけ開け、距離を詰めずに缶だけをそっと差し出した。

「冷えると余計寝れねぇから。飲んどけ」

それだけ言って、自室へ戻る。

布団に横になり、再び天井を見上げる。
襖の向こうで、缶を開ける小さな音がした。

たったそれだけで、胸の奥に残っていたざらつきが、少しずつ溶けていく。

怖くない、と言われた。
その一言が、思っていたよりずっと、深く沁みていた。

雨音はまだ続いている。
けれどその夜は、不思議なほど静かで、悪くなかった。