6.恋愛方程式を述べて

任務報告を終えて校舎へ戻った頃には、夕暮れの色がすでに廊下の奥まで入り込み、磨かれた床に長い影を引き延ばしていた。

戦闘の熱はとうに冷めているはずなのに、神経の奥だけが妙に冴えている。

祓除のあとの、あの独特の感覚だ。
体は疲れているくせに、頭だけが眠らない。

このまま寮に戻っても、どうせしばらくはだらだら起きているだけだろうと思いながら、五条は職員室の前を通り過ぎかけた。

「五条」

背後から、乾いた声が飛ぶ。
振り返ると、家入が手をあげながら、こちらに向かってくる。
嫌な予感しかしない顔だ。

「今帰り?」
「見りゃわかるだろ」
「じゃあちょうどいい。物資庫の補充お願い。包帯と保存食、札がごっそり減ってる」

鍵が軽く投げられる。
反射で受け取ってしまってから、舌打ちする。

「なんで俺が」
「他みんな出払ってる。五条が一番手ぇ空いてるんだよ」
「人使い荒すぎだろ」

ぶつぶつ言いながらも、結局歩き出す。
断るほどの用事もない。
 
階段へ向かったところで、ちょうど下の廊下から小柄な影が上がってきた。

資料を抱えた陽毬だった。
家入がふと思い出したように声をかける。

「小日向」
「はい?」
「補充手伝ってあげて。五条ひとりだと絶対ぐちゃぐちゃになるから」
「おい、余計なこと言うな」

抗議する間もなく、家入はひらひらと手を振って去っていった。
陽毬は少し戸惑った顔をしたあと、静かに頷く。

「……お手伝いします」

その言い方が、どこか律儀で、らしい。
 

地下の物資庫は、冷たい空気がこもっていた。

コンクリートと紙箱の匂いが混ざり、どこか乾いた匂いが鼻をつく。
蛍光灯の白い光の下、棚が整然と並んでいる。

陽毬はしゃがみ込み、在庫表を広げて丁寧に数を確認していく。

「包帯、あと二箱です。四つ補充します」
「りょーかい」

五条は段ボールをまとめて抱え上げ、棚に押し込む。

大雑把で、整えるという発想がそもそもないようなやり方だった。
案の定、列が少し歪む。

陽毬が何も言わずに、そっと直した。
怒るでもなく、呆れるでもなく、ただ当たり前みたいに。

「……お前、そういうの好きだろ」

思わず口に出る。

「え?」
「整理とか管理とか。俺やると全部適当になるし」

陽毬は小さく笑った。

「好きというより……気になっちゃうだけです」
「几帳面だな」
「五条先輩が気にしなさすぎなんですよ」

やわらかい言い方だった。
責める響きがまったくない。
それが妙に心地よくて、五条は軽く笑う。
 

補充を終えて外に出ると、空はすっかり夜に沈みかけていた。

校門の向こう、駅前の灯りがぽつぽつ瞬いている。
夕飯どきの匂いが風に混じる。
腹が鳴った。

「あー……腹減った」

独り言のつもりだった。

「……私もです」

隣から自然に返事がくる。
少し前までなら、こういう何気ない言葉すら途切れていたのに。

並んで歩く。
触れない距離。
でも、離れもしない距離。
 
しばらくして、陽毬がふと思い出したように言った。

「駅前、最近新しいお店増えましたよね」
「ん?」
「甘いもののお店……パンケーキ屋さん。女子寮で、ちょっと話題になってて」

言いながら、少し恥ずかしそうに視線を落とす。
そういう話題を出すのが、まだ照れくさいのだろう。

五条は軽く空を見上げた。
店の情報が、ふっと記憶に蘇る。

「……あー、あそこか」

数歩歩いてから、何気なく続ける。

「行く?」

あまりにも軽い調子だった。
寄り道でもするか、みたいに。
陽毬が足を止める。
小さく息を呑む音。
それから、遠慮がちに。

「……ご一緒しても、いいんですか」

許可を求めるような言い方が、なぜか胸に引っかかる。
五条は肩をすくめた。

「いいから誘ってんだろ」

歩き出す。
すぐ後ろから、小さな足音が追いついてくる。
並んだ影が、街灯の下で自然に重なった。

以前みたいに、怯えた間はない。
ただ、隣にいる。
それだけのことが、思っていたよりずっと悪くなかった。

気づかないふりをしながら、五条はほんの少しだけ歩幅を緩めた。