7.万能少年が恋を知った日

高専の門を出るころには、空の色はすでに夕暮れから夜へと溶けかけていた。

西の端に残った薄橙が、建物の影にゆっくり飲み込まれていく。

任務帰りの制服のまま歩く自分たちの足音が、アスファルトに乾いた響きを返した。

戦闘のあとの、妙に静かな時間だった。
呪霊の気配も、緊張も、命のやり取りも、ここにはない。
ただ人の生活の匂いだけがある。

駅前へ向かうにつれて、揚げ物の油の匂いだとか、パン屋の甘い匂いだとか、そんなものが次々に流れてきて、世界がやけに現実味を帯びていく。

五条は両手をポケットに突っ込みながら、隣を歩く小さな影をちらりと見た。

「……今日さ」
「はい?」
「硝子のやつ、普通に人使い荒くね?」

唐突な愚痴だった。
陽毬は一瞬きょとんとして、それからふっと笑う。

「家入先輩、五条先輩のこと便利屋さんみたいに扱いますよね」
「だろ? 完全に雑用係」
「でも、結局やってあげるじゃないですか」
「うるせぇな」

軽口が自然に返ってくる。
前みたいに言葉を選んでいる様子がない。
その変化に気づくたび、胸の奥が少しだけ温かくなる。
 
角を曲がった先で、ふわりと甘い匂いが流れてきた。
バターが溶ける匂いと、砂糖が焦げる匂い。
空腹を直接刺激してくる、やけに罪深い香りだった。

陽毬が足を止める。

「……あ」

視線の先に、小さなガラス張りの店があった。

中は柔らかな灯りに包まれていて、窓際のテーブルに並んだ皿の上には、やけに豪勢なパンケーキがいくつも乗っている。

写真で見るより、ずっとボリュームがありそうだった。

「ここか」

五条は看板を見上げる。

「噂のやつ」
「そうみたいですね」

言いながら、陽毬が少しだけ照れたように視線を逸らす。
その仕草が、妙に可笑しい。

「入るか」

確認でも提案でもない、いつもの調子でそう言って、五条は先に扉を押した。
陽毬が慌てて後ろから続く。
 
店内は温かく、外気より数度高い。
甘い匂いと人の声が混ざり合って、どこか柔らかな空間を作っていた。

二人掛けの小さなテーブルに案内され、自然に向かい合って座る。
それだけのことなのに、妙に距離が近く感じる。

テーブル越しに、陽毬の顔がよく見える。
任務中とは違う、力の抜けた表情。

「……すごいですね」

メニューを開いた瞬間、陽毬が小さく声を漏らした。

「量、多くないですか」
「だな。盛りいい店だわ」

五条の目が素直に輝く。

「こういうの、好き」
「やっぱり」
「甘いのは正義だろ」

即答だった。
迷いがない。
その様子が面白くて、陽毬がくすっと笑う。
 
「陽毬、どれにすんの」
「え……」
「悩んでんだろ」

視線を落とし、真剣にメニューを追っていく。

「……これ、です」

季節のフルーツが山みたいに積まれたやつだった。
色がきれいで、いかにも女子が好きそうなもの。

「いいじゃん。うまそう」

何気なく言っただけなのに、陽毬が少しだけ嬉しそうに目を細める。
その反応に、なぜか胸の奥がじわっと温まった。
 
パンケーキが運ばれてきた瞬間、二人そろって黙った。

皿いっぱいに広がる生地とクリーム。
写真より明らかに迫力がある。

「……でか」
「……大きいですね」

顔を見合わせて、同時に笑う。
その笑い方が、あまりに自然で、五条は一瞬だけ言葉を失った。
 
フォークを入れると、生地がふわりと沈む。
一口食べる。
甘さが、まっすぐに広がる。

「……うま」

思わず漏れた。

「ほんとですか?」
「うん。これ当たり」

子どもみたいな感想だった。
陽毬も口に運び、目を丸くする。

「……おいしい」

その表情があまりに素直で、五条は笑った。

任務中には絶対見せない顔だ。
呪霊の前では絶対に出ない声だ。
今ここにいるのは、呪術師じゃない。
ただの高校生だった。
 
皿を挟んで、他愛もない話をする。

灰原がまた変な冗談を言っていたこととか、七海の小言が増えてきたこととか、家入の雑な指示のこととか。

笑って、食べて、また笑って。
ただそれだけの時間が、思っていたより心地いい。
 
ふと。
陽毬がナプキンを握ったまま、小さく言った。

「……五条先輩と、こうやって普通に出かけられるの、なんだかまだ不思議です」
「不思議?」
「はい。少し前まで、隣に立つだけで緊張してたのに」

照れくさそうに笑う。

「今は、ちゃんと楽しいって思えてる自分がいて……それが、嬉しくて」

胸の奥が、静かに鳴った。
 
五条は視線を逸らし、そっけなく返す。

「そりゃよかった」

それだけ。
それだけなのに。
どうしようもなく、満たされた気分だった。
 
店を出ると、夜風が頬を撫でた。
街灯の下、ふたりの影が並んで伸びる。

どちらからともなく歩調が揃い、自然に隣にいる。
その距離が、もう怖がられていた頃のそれとはまるで違うことに、五条は何も言わず、ただ静かに気づいていた。

そしてその事実を、思っていたよりずっと大切に感じている自分に、ほんの少しだけ驚いていた。