任務報告を終えて高専へ戻った頃には、夕暮れの色がすでに廊下の奥まで入り込み、磨かれた床に長い影を引き延ばしていた。
戦闘の熱はとうに冷めているはずなのに、神経の奥だけが妙に冴えている。祓除のあとの、あの独特の感覚だ。体は疲れているくせに、頭だけが眠らない。
このまま寮に戻っても、どうせしばらくはだらだら起きているだけだろうと思いながら、五条は職員室の前を通り過ぎかけた。
「五条」
背後から、乾いた声が飛ぶ。振り返ると、家入が手をあげながら、こちらに向かってくる。嫌な予感しかしない顔だ。
「今帰り?」
「見りゃわかるだろ」
「じゃあちょうどいい。物資庫の補充お願い。包帯と保存食、札がごっそり減ってる」
鍵が軽く投げられる。反射で受け取ってしまってから、舌打ちする。
「なんで俺が」
「他みんな出払ってる。五条が一番手ぇ空いてるんだよ」
「人使い荒すぎだろ」
ぶつぶつ言いながらも、結局歩き出す。断るほどの用事もない。
階段へ向かったところで、ちょうど下の廊下から小柄な影が上がってきた。資料を抱えた陽毬だった。家入がふと思い出したように声をかける。
「小日向」
「はい?」
「補充手伝ってあげて。五条ひとりだと絶対ぐちゃぐちゃになるから」
「おい、余計なこと言うな」
抗議する間もなく、家入はひらひらと手を振って去っていった。陽毬は少し戸惑った顔をしたあと、静かに頷く。
「……お手伝いします」
その言い方が、どこか律儀で、らしいと五条は思った。
地下の物資庫は、冷たい空気がこもっていた。コンクリートと紙箱の匂いが混ざり、どこか乾いた匂いが鼻をつく。蛍光灯の白い光の下、棚が整然と並んでいる。
陽毬はしゃがみ込み、在庫表を広げて丁寧に数を確認していく。
「包帯、あと二箱です。四つ補充します」
「りょーかい」
五条は段ボールをまとめて抱え上げ、棚に押し込む。大雑把で、整えるという発想がそもそもないようなやり方だった。案の定、列が少し歪む。陽毬が何も言わずに、そっと直した。怒るでもなく、呆れるでもなく、ただ当たり前みたいな動作だった。
「……お前、そういうの好きだろ」
思わず口に出る。
「え?」
「整理とか管理とか。俺やると全部適当になるし」
陽毬は小さく笑った。
「好きというより……気になっちゃうだけです」
「几帳面だな」
「五条先輩が気にしなさすぎなんですよ」
やわらかい言い方だった。責める響きがまったくない。それが妙に心地よくて、五条は軽く笑う。
補充を終えて外に出ると、空はすっかり夜に沈みかけていた。校門の向こう、駅前の灯りがぽつぽつ瞬いている。夕飯どきの匂いが風に混じる。不意に腹が鳴った。
「あー……腹減った」
独り言のつもりだった。
「……私もです」
隣から自然に返事がくる。少し前までなら、こういう何気ない言葉すら途切れていたのに。二人で並んで歩く。触れない距離だが、離れもしない距離だった。
しばらくして、陽毬がふと思い出したように言った。
「駅前、最近新しいお店増えましたよね」
「ん?」
「甘いもののお店……パンケーキ屋さん。女子寮で、ちょっと話題になってて」
言いながら、少し恥ずかしそうに視線を落とす。そういう話題を出すのが、まだ照れくさいのだろう。
五条は軽く空を見上げた。店の情報が、ふっと記憶に蘇る。
「……あー、あそこか」
数歩歩いてから、何気なく続ける。
「行く?」
あまりにも軽い調子だった。寄り道でもするか、みたいに。陽毬が足を止める。小さく息を呑む音がする。それから、遠慮がちに。
「……ご一緒しても、いいんですか」
許可を求めるような言い方が、なぜか胸に引っかかる。五条は肩をすくめた。
「いいから誘ってんだろ」
歩き出したすぐ後ろから、小さな足音が追いついてくる。並んだ影が、街灯の下で自然に重なった。以前みたいに、怯えた間はない。ただ、隣にいる。それだけのことが、思っていたよりずっと悪くなかった。気づかないふりをしながら、五条はほんの少しだけ歩幅を緩めた。
高専の門を出るころには、空の色はすでに夕暮れから夜へと溶けかけていた。西の端に残った薄橙が、建物の影にゆっくり飲み込まれていく。
任務帰りの制服のまま歩く自分たちの足音が、アスファルトに乾いた響きを返した。戦闘のあとの、妙に静かな時間だった。呪霊の気配も、緊張も、命のやり取りも、ここにはない。ただ人の生活の匂いだけがある。
駅前へ向かうにつれて、揚げ物の油の匂いだとか、パン屋の甘い匂いだとか、そんなものが次々に流れてきて、世界がやけに現実味を帯びていく。
五条は両手をポケットに突っ込みながら、隣を歩く小さな影をちらりと見た。
「……今日さ」
「はい?」
「硝子のやつ、普通に人使い荒くね?」
唐突な愚痴だった。陽毬は一瞬きょとんとして、それからふっと笑う。
「家入先輩、五条先輩のこと便利屋さんみたいに扱いますよね」
「だろ? 完全に雑用係」
「でも、結局やってあげるじゃないですか」
「うるせぇな」
軽口が自然に返ってくる。前みたいに言葉を選んでいる様子がない。その変化に気づくたび、胸の奥が少しだけ温かくなる。
角を曲がった先で、ふわりと甘い匂いが流れてきた。バターが溶ける匂いと、砂糖が焦げる匂い。空腹を直接刺激してくる、やけに罪深い香りだった。
陽毬が足を止める。
「……あ」
視線の先に、小さなガラス張りの店があった。中は柔らかな灯りに包まれていて、窓際のテーブルに並んだ皿の上には、やけに豪勢なパンケーキがいくつも乗っている。写真で見るより、ずっとボリュームがありそうだった。
「ここか」
五条は看板を見上げる。
「噂のやつ」
「そうみたいですね」
言いながら、陽毬が少しだけ照れたように視線を逸らす。その仕草が、妙に可笑しい。
「入るか」
確認でも提案でもない、いつもの調子でそう言って、五条は先に扉を押した。陽毬が慌てて後ろから続く。
店内は温かく、外気より数度高い。甘い匂いと人の声が混ざり合って、どこか柔らかな空間を作っていた。
二人掛けの小さなテーブルに案内され、自然に向かい合って座る。それだけのことなのに、妙に距離が近く感じる。テーブル越しに、陽毬の顔がよく見える。任務中とは違う、力の抜けた表情だった。
「……すごいですね」
メニューを開いた瞬間、陽毬が小さく声を漏らした。
「量、多くないですか」
「だな。盛りいい店だわ」
五条の目が素直に輝く。
「こういうの、好き」
「やっぱり」
「甘いのは正義だろ」
即答だった。あまりにも迷いがないその様子が面白くて、陽毬がくすっと笑う。
「陽毬、どれにすんの」
「え……」
「悩んでんだろ」
視線を落とし、真剣にメニューを追っていく。
「……これ、です」
季節のフルーツが山みたいに積まれたやつだった。色がきれいで、いかにも女子が好きそうなもの。
「いいじゃん。うまそう」
何気なく言っただけなのに、陽毬が少しだけ嬉しそうに目を細める。その反応に、なぜか胸の奥がじわっと温まった。
パンケーキが運ばれてきた瞬間、二人そろって黙った。皿いっぱいに広がる生地とクリーム。写真より明らかに迫力がある。
「……でか」
「……大きいですね」
顔を見合わせて、同時に笑う。その笑い方が、あまりに自然で、五条は一瞬だけ言葉を失った。
フォークを入れると、生地がふわりと沈む。一口食べると、甘さがまっすぐに広がる。
「……うま」
思わず漏れた。
「ほんとですか?」
「うん。これ当たり」
子どもみたいな感想だった。陽毬も口に運び、目を丸くする。
「……おいしい」
その表情があまりに素直で、五条は笑った。任務中には絶対見せない顔だ。呪霊の前では絶対に出ない声だ。今ここにいるのは、呪術師じゃない。ただの高校生だった。
皿を挟んで、他愛もない話をする。灰原がまた変な冗談を言っていたこととか、七海の小言が増えてきたこととか、家入の雑な指示のこととか。笑って、食べて、また笑って。ただそれだけの時間が、思っていたより心地いい。
ふと、陽毬がナプキンを握ったまま、小さく言った。
「……五条先輩と、こうやって普通に出かけられるの、なんだかまだ不思議です」
「不思議?」
「はい。少し前まで、隣に立つだけで緊張してたのに」
照れくさそうに笑う。
「今は、ちゃんと楽しいって思えてる自分がいて……それが、嬉しくて」
胸の奥が、静かに鳴った。五条は視線を逸らし、そっけなく返す。
「そりゃよかった」
それだけだった。それだけなのに、どうしようもなく満たされた気分だった。
店を出ると、夜風が頬を撫でた。街灯の下、ふたりの影が並んで伸びる。どちらからともなく歩調が揃い、自然に隣にいる。その距離が、もう怖がられていた頃のそれとはまるで違うことに、五条は何も言わず、ただ静かに気づいていた。
そしてその事実を、思っていたよりずっと大切に感じている自分に、ほんの少しだけ驚いていた。