7.不揃いな感情
虎杖が生きていたと分かった日のことは、今でも妙に鮮明に覚えている。
あの場の空気も、匂いも、声の震えも、やけに細部まで思い出せる。
ひよりは、その場で泣いた。
それも、静かに涙をこぼすとか、目元を拭うとか、そんなきれいな泣き方じゃない。
安心しきった子どもみたいに、顔をぐしゃぐしゃにして、声も隠さず、取り繕うこともせず、ただ「よかった」と何度も繰り返していた。
虎杖はバツが悪そうな困った顔で笑い、釘崎は少し目元を赤くしていた。
うるさくて、騒がしい、いつもの光景だった。
胸の奥にずっと引っかかっていた重たい塊が、ようやく溶ける。
全部、元に戻った。
――少なくとも、俺以外は。
それからの高専は、驚くほどあっさりと日常を取り戻した。
虎杖がいるだけで空気は勝手に明るくなるし、釘崎は相変わらず遠慮なく物を言うし、ひよりはその横で楽しそうに笑っている。
廊下を歩けば、いつも通りの掛け合いが始まる。
「なあ伏黒! 今日の任務さ、終わったらどっか寄ってこうぜ」
「却下」
「即答かよ!」
「どうせ金ないだろ」
「なんでバレてんの!?」
そのやり取りを聞きながら、ひよりがくすっと笑う。
その笑い声が思ったより近くで聞こえて、はっとした。
いつの間にか、ひよりは俺のすぐ隣を歩いている。
肩が、軽く触れた。
それだけの接触なのに、やけに意識が持っていかれて、呼吸のリズムが一瞬狂う。
前は、こんなこと気にもしなかった。
ひよりが隣にいるのなんて、当たり前だったから。
今は違う。
無意識のうちに歩幅をずらして、わずかに距離を取る。
ひよりは気づかない。
気づかないまま、また自然に並んでくる。
袖が擦れる。
体温が伝わる。
結局こっちが折れて、元の位置に戻した。
離れる方が、余計に落ち着かなかった。
昼休み、購買前でメニューを眺めていると、ひよりが俺の肩越しにひょいと顔を出した。
「恵、どれにする?」
距離が近い。
思ったよりずっと近くて、髪が頬に触れそうになる。
ふわっと甘い匂いがして、反射的に半歩下がった。
「……なんでもいい」
口から出た声が、思ったより素っ気なくて、自分でも少し驚く。
ひよりはきょとんとして、それから困ったように笑った。
「そっか。じゃあ私と同じのにする?」
そう言って、当然みたいに俺の袖を引く。
軽い力なのにその指先の感触が妙に熱くて、振り払う理由もないまま、そのままレジに並んだ。
結局、同じものを注文している自分に気づいて、内心で小さく舌打ちする。
……何やってんだ、俺は。
任務中は問題ない。
頭も体も、いつも通り動く。
判断も鈍らない。
ひよりも、もう不安定さを見せない。
術式の制御も安定しているし、足手まといになることもない。
守る側と守られる側、そんな関係はとっくに終わっていて、今はちゃんと隣に立つ呪術師だ。
そのはずなのに。
ふとした瞬間、視線が勝手に追ってしまう。
前は確認だった。
無事かどうか、それだけ。
今は違う。
誰と話しているとか、どんな顔で笑っているとか、そんな余計なことばかりが目につく。
自分で気づいて、面倒くさくなる。
寮へ戻る途中、ひよりが横から顔を覗き込んできた。
「ねえ、恵」
相変わらず近くに寄って来て、遠慮がない。
「最近さ」
「……なんだ」
「なんか、変じゃない?」
その言葉に、心臓が小さく跳ねた。
「どこが」
「うーん……」
少し考えてから、首を傾げる。
「前より、ちょっと遠い気がする」
責めるでもなく、ただ不思議そうに言うだけの声音。
でも、その奥にほんの少しだけ混じった寂しさが、胸に刺さった。
「……気のせいだろ」
「そっか」
それ以上は追及してこない。
いつも通り笑う。
だから余計に、居心地が悪い。
避けたいわけじゃない。
傷つけたいわけでもない。
ただ、近すぎると、どうしていいか分からなくなるだけだ。
夜、ベッドに横になって天井を見上げる。
虎杖は生きている。
ひよりは笑っている。
日常はちゃんと続いている。
何も問題ないはずなのに。
昼間、袖を掴まれた感触が、まだ残っている。
肩が触れたときの体温も、髪の匂いも、妙に鮮明で、思い出すたびに落ち着かなくなる。
らしくない、と自分でも思う。
目を閉じても、しばらく眠気は来なかった。
明日もきっと、同じ一日が来る。
いつも通り隣にいて、いつも通り笑って、何も考えずに距離を詰めてくる。
その「いつも通り」が、今の俺にはやけに難しくて、どう扱えばいいのか分からないまま、長い夜だけが静かに過ぎていった。
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