8.境界線の手前で

任務報告書は、もうとっくに書き終えていた。
机の上に置いたまま、閉じてもいない。
提出すれば終わるだけの紙切れなのに、なぜか手が伸びない。
ペンだけが、指の間に挟まったままだった。
書くことは、もうない。
それでも無意識に持ったまま、紙の端を眺めている。

……集中できていない。

普段なら、とっくに教室を出ている時間だ。
報告が終われば、次の行動に移る。
考えるより先に身体が動く。
それがいつもの自分なのに、今日は、椅子から立ち上がる理由が見つからなかった。

窓の外から、かすかな笑い声が聞こえる。
視線だけ向ける。
中庭のベンチで、虎杖と釘崎と——ひよりが、何か言い合っている。
虎杖が大袈裟に身振りをして、釘崎が呆れた顔で突っ込んで、ひよりが笑う。
いつもの光景だ。

ペンを置く。
意味もなく、もう一度だけ報告書に目を通してから、ため息を吐いた。
そのとき。

「恵ー」

やたら軽い声が、廊下から飛んできた。
嫌な予感しかしない。
目を向ける前から分かる。

——五条先生だ。

半開きのドアから、長身がひょいと顔を出す。

「……何ですか」
「冷たくない? 出張から帰って来て、可愛い教え子の顔見に来たんだけど」
「用件は?」
「うわ、情緒ゼロ」

教室の中に入ってきて、勝手に隣の椅子に腰かける。
脚を組んで、やけにくつろいだ様子だった。

「任務終わり?」
「終わりました」
「ふーん。報告書も?」
「さっき」
「優等生だねぇ」

軽い口調のくせに、視線だけがやたら鋭い。
机の上、窓の外、俺の顔。
順番に観察されているのが分かる。

「……何ですか」
「いや別に。ただ」

少しだけ首を傾げる。

「最近、様子変じゃない?」

一瞬、言葉が詰まる。

「……何がです」
「んー。落ち着きがないっていうか、上の空っていうか」

にや、と笑う。

「青春?」
「違います」

即答した。
五条先生は声を出して笑った。

「即否定。怪しさ満点だね」
「用がないなら帰ってください」
「やだ」

椅子の背もたれに、ぐっと身を預ける。

「せっかくだし雑談しよ。先生、今日暇」

絶対嘘だろ。この人が暇なわけがない。
しばらく黙っていると、五条先生は窓の外に目をやった。

「ひより、元気そうだね」

反射的に視線がそっちへ向く。
三人で並んで歩いている。
虎杖が何か言って、ひよりが肩を揺らして笑っている。
その距離が、やけに近く見えた。

「……まあ」
「いい顔してる。最初会った頃とは別人だ」
「……そうですね」
「恵のおかげ?」
「違います」
「また即答。別に違わないでしょ」

くすくす笑われる。

「君さ」

不意に、声のトーンが落ちた。

「距離取りすぎじゃない?」
「……は?」
「見てて分かるよ。近づきたいのに、自分から半歩下がってる」

図星だった。
何も言えない。

「優しいんだよね、恵は。壊したくないんでしょ」

軽く言う。
軽いのに、やたら刺さる。

「でもさ」

脚を組み替えながら、さらっと続けた。

「何もしなかったら、あの子、いつまでたっても手に入らないよ?」

心臓が、嫌な音を立てた。

「……意味分かりません」
「分かってるくせに」

にこっと笑う。
いつもの教師の顔。

「守るだけじゃダメな時もあるって話。欲しいなら、ちゃんと手ぇ伸ばさないと」

沈黙が落ちる。
五条先生は立ち上がった。

「ま、若者の恋路に口出すのも野暮か」

ドアに手をかけて、振り返る。

「でも後悔する顔は見たくないからね。君、わりと引きずるタイプだし」

余計なお世話だ。
そう言い返したかったが、声にならなかった。

「じゃ、また来るね」
「……来なくていいです」
「冷たいなぁ」

笑いながら出ていく。
ドアが閉まって、教室が静かになる。
窓の外を見る。
ちょうど、ひよりがこちらを向いた。
目が合った気がして、反射的に視線を逸らした。

……何をやっている。

自分でも分からない。
守りたいだけのはずなのに、近づくほど、離れたくなる。
触れたら、何かが壊れる気がして。
それでも。
胸の奥が、妙にざわついている。
ペンを握り直す。
もう書くことはないのに、落ち着かない。
五条先生の言葉が、やけに耳に残っていた。

——何もしなかったら、手に入らないよ。

……うるさい。
そんなの、分かってる。
分かってるのに、どうすればいいのかだけが、分からなかった。


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