9.境界の向こう側

その日は任務帰りだった。
大した怪我もなく終わったが、ひよりは最後の局面で少しだけ動きが硬かった。

帰り道、並んで歩きながら、そのことを言いかけてやめる。
指摘するほどでもない。
だが、隣にいるひよりの気配が、いつもよりわずかに静かだった。

「今日さ」

ひよりが口を開く。

「最後のやつ、ちょっと怖かった」

そう言いながら、俺の袖を軽く掴んだ。
昔からの癖だ。
不安になると、無意識に誰かの服を掴む。
高専に入る前も、何度もそうだった。
今までは、何も考えずそのまま歩いていた。
だがその瞬間、俺は袖を引いた。
強くではない。
ただ、自然に見える程度に、指先を逃がしてしまった。
ひよりの指が、空を掴む。
俺はそのまま歩き続けた。

「大丈夫だったろ」

振り返らずに言う。
少し遅れて、「うん」と返事があった。
その声が、ほんの少しだけ固いことに、気づいていた。

寮に着く直前、ひよりが立ち止まる。

「……恵」
「なんだ」
「最近、私のこと避けてる?」

真正面からだった。
逃げ道はない。

「……そんなことない」

即答したが、ひよりは視線を逸らさない。

「さっき、手」

小さく言う。

「避けたよね」

喉が、わずかに詰まる。
俺は、避けた。
自覚はある。
触れれば戻れなくなると分かっていたからだ。

「……」

何も言わない俺に、ひよりは少しだけ笑おうとした。
だが、うまく笑えていなかった。

「そっか」

それだけ言って、先に歩き出す。
その背中が、ほんのわずかに遠く見えた。

その夜。
消灯してから、しばらくしてノックの音がした。
来るかどうかは分からなかった。
ただ、来たときに拒める自信がないことだけは、分かっていた。

「……恵」

小さな声。
俺はベッドから起き上がるまでに、少し時間をかけた。

ドアを開けると、ひよりが立っている。
風呂に入ってそのままなのか、髪は乾ききっていない。
目は真っ直ぐ俺を見据えていた。

「少しだけ、話していい?」
「……ああ」

部屋に入ると、ひよりはすぐには座らなかった。
ドアの前で、しばらく立ったまま、視線だけを俺に向けている。
何か言いに来たのは分かる。
けれど、その言葉を探しているのも分かる。

「……座れよ」

そう言うと、ひよりは小さく頷いて、ベッドの端に腰を下ろした。
それでも、膝の上で指先を絡めたまま、なかなか顔を上げない。
沈黙が、やけに長く感じる。

「……さっき」

ようやく、ひよりが口を開いた。
声は、思ったより落ち着いている。

「避けてないって言ったよね」

ひよりは俯いたまま言った。

「……言った」
「……うん」

そこで会話が止まる。
部屋の中の空気だけが、じわじわ重くなる。
ひよりは、指先をぎゅっと握ったまま、視線を落とした。

「……私、何かしたかな」

小さな声だった。
責めていない。
自分の中を探っているだけの声だ。

「してない」

それは迷わなかった。
ひよりはそこで少しだけ息をついた。
でも安心した顔にはならない。

「……じゃあ」

そこまで言って、また止まる。
言葉にするのが怖い顔だった。
俺は、待つしかなかった。

「……嫌いになった?」

ようやく出た言葉は、思ったよりも静かだった。
泣いてもいないし、怒ってもいない。
ただ、確認しているだけの言葉。
それが、妙に刺さる。

「違う」

即座に出る。
ひよりは、そこで初めて顔を上げた。
目は揺れているけれど、まだ泣いていない。

「……そっか」

小さくそう言って、視線を落とす。
それで終わらせようとする。
引こうとしているのが分かる。
だから余計に、喉の奥が詰まる。

「……じゃあ、なんで、避けるの」

言葉が詰まる。
誤魔化せるはずがない。

「……触れたら、止まらなくなる」

気づけば、そう言っていた。
ひよりが、わずかに息を呑む。

「今までみたいに、何も考えずに隣にいられなくなる」

視線を逸らさずに続ける。

「だから距離を取った」

部屋の空気が、ひどく静かになる。
ひよりの目が揺れる。

「それって」

小さく、確かめるように。

「どういう意味?」

もう逃げ場はない。
ここで何も言わなければ、本当に終わる。
俺は一歩近づいた。

「ひよりを、欲しいと思ってる」

自分でも驚くほどはっきりした声だった。

「今までみたいな位置に置いておけない」

沈黙。
ひよりは目を伏せ、拳をぎゅっと握る。

「私、そんなつもりでそばにいたわけじゃないよ」

その言葉に、胸が強く跳ねる。
一瞬、遅れたら終わると直感する。

「わかってる」

低く言う。

「わかってるけど、俺はそうなった」

自分の声が、わずかに荒れているのが分かる。

「ひよりが誰かの隣に行くのも、俺の前から離れるのも、想像したくない」

ひよりが顔を上げる。
目が揺れている。

「……恵」

一歩、下がろうとする気配があった。
その瞬間、考えるより先に手が動いた。
そのまま、ひよりの腕を掴んで引き寄せた。

「逃げるな」

声が低くなる。
自分でも分かるくらい、余裕がない。
ひよりの目が揺れる。

「ここで離れたら、俺はもう追えなくなる」

ひよりの呼吸が浅くなる。
胸が触れ合う距離。
目を逸らさない。

「嫌なら今言え。そしたら離れる」

本気だった。
強がりでも脅しでもない。
ひよりの指が、俺のシャツを掴む。
震えている。

「……嫌じゃ、ない」

小さな声。

「びっくりしただけ」

それで十分だった。
思考より先に、体が動く。
俺はひよりに口づけた。
触れた瞬間、ひよりの肩がわずかに強張る。
だがひよりは逃げなかった。
数秒。
それだけで、もう後戻りはできないと理解する。
唇を離すと、ひよりは頬を赤くしたまま俺を見上げていた。

「……恵」

息が混じる。
ひよりの視線がこちらに向く。
喉の奥が、ひどく乾いた。
逃げようと思えば逃げられる。
曖昧に誤魔化すこともできる。
でも、それをやったら、今度こそ取り返しがつかなくなる。
ひよりの肩が、わずかに震えた。
その瞬間、言葉が先に出た。

「好きだ」

自分の声が、やけに近くで響く。
ひよりが息を呑む。

「……ひよりが、好きだ」

それ以上は、何も言わない。
迷いはなかった。

「だから距離を取った。触れたら止まらなくなるってわかってたから」

ひよりの瞳が大きく揺れる。

「……嫌いになったわけじゃない」
「……なら、どうして」

かすれた声。

「失うのが怖かった」

短く言う。

「ひよりが俺を選ばなかった時のことを、考えたくなかった」

それだけは、本音だった。
沈黙が落ちる。
ひよりはしばらく俺を見つめ、それから小さく息を吐いた。

「……恵、ずるい」

目の奥が、わずかに潤んでいる。

「そんな顔で言われたら、強がれない」

その言い方に、胸の奥が静かに締まる。

「……離れないでくれ」

思っていたより、低い声が出た。
ひよりは一瞬だけ目を丸くして、それから、ほんの少し笑った。

「離れないよ。私も……恵のそばにいたい」

迷いのない声音だった。
俺は、ひよりの後頭部に手を回し、額をそっと触れさせる。

「……なら、ここにいてほしい」

ひよりは、静かに頷いた。

「うん」

それだけで、十分だった。
胸に預けられた体温が、はっきりと現実を伝えてくる。

もう、距離を測り直す必要はない。
ひよりの呼吸が、ゆっくりと落ち着いていく。
俺はその重みを確かめながら、ようやく理解する。

守るとか、支えるとか、そういう言葉じゃ足りない。
ただ、好きだ。
それだけで、ここまで来た。

部屋の静けさは変わらないのに、世界の輪郭だけがわずかに変わって見えた。


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