10-2.『確かめたいの』A

手が、触れる寸前で止まった。
指先が宙に浮いたまま動かない。
あと数センチ伸ばせば触れられる距離なのに、そのわずかな差がやけに重かった。

ひよりは逃げない。
ただ、じっとこちらを見ている。
試すみたいな目でも、誘っている目でもない。
自分でも答えが分からないまま、それでも確かめようとしている目だった。

……だから困る。

息を吐く。
ゆっくり手を下ろそうとした、その瞬間。
ひよりが、ほんの少しだけ身を乗り出した。
距離が縮まる。
不意に、額が触れそうになる。

「……お前」

声が掠れる。

「分かっててやってんのか」

問いかけても、ひよりはすぐには答えなかった。
視線だけが揺れて、それから小さく首を振る。

「……分かんない」

正直すぎる返事だった。

「でも、ちゃんと知りたい」

その言葉が落ちた瞬間、胸の奥で何かがきしむ。
逃げ場がなくなる。
ひよりはまだ迷っている。
でも、後ろには下がらない。
その状態で俺の上にいる。
それがどれだけ危ないことか、分かっていない。

「……俺は分かってる」

低く言う。

「お前のこと、そういう意味で好きだって、もう言った」

ひよりの呼吸が止まる。
視線がわずかに揺れる。
それでも離れない。
その距離のまま、数秒沈黙が続いた。
静かすぎて、廊下の足音まで聞こえる。

「……恵は」

ひよりが、慎重に言葉を選ぶ。

「今も、同じ?」

質問は短かった。
けれど意味は十分すぎるほど伝わった。

「変わる理由あるか」

答えると、ひよりの目がわずかに見開かれる。
その反応を見た瞬間、理性が一歩遅れた。
手が動く。
今度は止めなかった。
頬に触れる。
柔らかい髪が指に絡む。
温度が直接伝わってきて、喉が乾く。
ひよりの肩が小さく揺れた。

ひよりは逃げない。
ただ、息を詰めている。
その顔を見た瞬間、衝動が一気に押し寄せた。

体を起こす。
気づけば、立場が逆になっていた。
ひよりの背中がベッドに沈む。
押し倒した自覚が遅れて追いつく。

「……っ」

ひよりの呼吸が浅くなる。
距離が近い。
近すぎる。
唇が触れそうな位置で止まる。
ほんの少し動けば届く。
届く――

その瞬間、ひよりの指がシーツを握った。
迷い。
ほんのわずかな躊躇。
それを見た途端、頭が冷える。
動きが止まった。
数秒。
呼吸だけが重なる。
それから、ゆっくり距離を離した。
額を軽く合わせる位置で止まる。

「……今日はここまでだ」

低く言う。
ひよりが瞬きをする。

「え……?」
「お前、自分でまだ分かってねぇだろ」

責める響きにならないように気をつけたつもりだったが、声は自然と硬くなる。

「その状態で先に進む気はない」

ひよりは黙る。
理解しようとしている顔だった。
少し間が空く。
俺が体を離そうとした、その時。
服の裾が引かれた。
視線を落とす。
ひよりの指が、しっかり掴んでいる。
離す気配がない。

「……なんだよ」

聞くと、ひよりは少し迷ってから、顔を上げた。
言葉を探している。
けれど見つからない。
それでも手は離さない。
胸の奥が強く鳴る。

「……お前さ」

息が漏れる。

「そういうことするなら、覚悟決めろ」

ひよりの目が揺れる。
逃げたいわけじゃない。
でも怖くないわけでもない。
そんな顔だった。

沈黙が続く。
数秒。
長い沈黙。
そして――ひよりが、ほんの小さく頷いた。

その動きが、決定打だった。
理性が静かに線を越える。
顔を近づける。
逃げ場は作らない。
でも急がない。
額が触れる。
呼吸が混じる。

「……言っとくが」

低く告げる。

「いいって言ったの、お前だからな」

ひよりの瞳が揺れる。
そのまま、そっと唇を重ねた。
強くはない。
確かめるような、短いキスだった。

離れたあとも、どちらもすぐには動かなかった。

夜の空気が静かに流れる。
もう、さっきまでと同じ距離には戻れないと分かっていた。


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