10-4.『確かめたいの』C
俺はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
唇に、まだ感触が残っている。
指で軽く触れてみて、すぐに手を下ろす。
軽く吐いた息は、やけに静かに部屋へ落ちた。
戻れないところまで来た、という実感だけが、遅れて胸の奥に沈んでいく。
ベッドに腰を下ろす。
さっきまでひよりがいた場所に、体温が残っている気がして、無意識に視線を逸らした。
天井を見上げる。
眠れるわけがないと思ったのに、いつの間にか意識は落ちていた。
翌朝。
食堂に入った瞬間、空気の違いに気づく。
虎杖が騒いでいて、釘崎がそれを雑にあしらっている。
いつもの光景だ。
その向こうに、ひよりがいる。
トレーを持ったまま、固まっていた。
目が合う。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
次の瞬間、ものすごい勢いで視線を逸らされた。
……分かりやすすぎる。
席に着く。
ひよりは、俺の向かいではなく、微妙に斜めの位置を選んだ。
距離が、半歩遠い。
「清華、なんか今日静かじゃね?」
と虎杖が言う。
「え? あ、うん。ちょっと考えごとしてて」
声が一拍遅れる。
パンにバターを塗る手元が、わずかにぎこちない。
耳まで赤い。
俺が何も言わないでいると、ひよりが一度だけ、恐る恐る視線を上げてきた。
また目が合う。
今度は逸らさない。
数秒。
ひよりの頬が、みるみる赤くなる。
「……っ」
小さく息を呑んで、今度は本気で俯いた。
まだ処理が追いついていない顔だった。
昨夜の自分の行動と、今の現実がまだうまく繋がっていないらしい。
「……お前」
小声で呼ぶ。
ひよりがびくっと肩を揺らす。
「な、なに」
「ちゃんと寝たのか」
それだけを聞く。
ひよりは数秒固まってから、こくりと頷いた。
「……たぶん」
声が小さい。
俺はそれ以上追及しない。
代わりに、パンを一口かじる。
その横顔を、ひよりがちらちらと盗み見ているのが分かる。
視線が触れるたびに、また赤くなる。
……これで分かっただろ。
言葉には出さない。
けれど、確かに変わった距離がそこにあった。
昨日までと同じ席、同じ朝なのに、空気の温度が少しだけ違う。
その変化を、俺は悪くないと思っていた。
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