11.恋人の距離
あの夜のあと、しばらくは妙な空気が続いた。
ひよりが俺を押し倒したことも、そのあとキスをしたことも、どちらもなかったことにはできない。
だからといって、わざわざ蒸し返すような話でもなかった。
俺だって平然としていられたわけじゃない。
今までと同じ距離で隣にいるはずなのに、やけに意識してしまう。
ひよりが近くに来るだけで、無駄に神経が働く。
それでも、任務はあるし、授業もある。
そんなことで立ち止まっていられるほど、高専の生活は暇じゃない。
結局、俺たちは何も特別なことを言葉にしないまま、少しずついつもの調子に戻っていった。
ひよりは相変わらずよく笑うし、俺も普段通りに接している。
……ただ一つ違うのは、前よりお互いを『そういう相手』として意識していることくらいだった。
その夜。
寮の共有スペースは、思ったより静かだった。
灯りは落ち着いた色に変わっていて、廊下から聞こえてくる音もほとんどない。
任務のない日は、誰かがだらだらと時間を潰していることも多い場所だが、今日はたまたま人が少なかった。
俺はソファの端に座り、読みかけの本を開いていた。
内容を読んでいたわけではない。
ページはめくっているが、頭の中では別のことを考えていた。
ただ単に、意識を集中させる何かが欲しかっただけだ。
向かいのテーブルには、ひよりが座っていた。
さっきまで何か話していたはずなのに、途中からやけに静かになったと思ったら、いつの間にか頬杖をついたまま動かなくなっている。
ページをめくる手が止まる。
顔を上げると、ひよりの目は完全に閉じていた。
……寝てる。
「……おい」
小さく声をかける。
反応はない。
肩がゆっくり上下しているだけで、完全に眠っているらしい。
少しだけ息を吐く。
この姿勢のままだと、首を痛める。
そう思って立ち上がり、テーブルの横に回った。
「ひより」
肩に軽く触れる。
体を少し揺らしてみたが、起きる気配はない。
代わりに、体がふらりと傾いた。
咄嗟に手が出る。
肩を支える。
そのままソファの背にもたれさせるように姿勢を整えると、今度は頭がこちら側に傾いてきた。
……落ちる。
反射的に腕を出す。
結果、ひよりの頭が俺の肩に乗った。
静かな呼吸がすぐ近くで聞こえる。
完全に寝てる。
「……ったく」
小さく呟く。
このまま起こして部屋に戻すのが普通なんだろうが、ここまでぐっすり寝ていると、わざわざ揺り起こすのも気が引けた。
仕方なく、そのままにしておく。
ひよりの体がずり落ちないように、片手で軽く支える。
しばらくすると、前髪が目にかかっているのに気づいた。
無意識に手が伸びる。
指先でそっと髪を払い、耳の後ろへ流す。
その瞬間だった。
「あ、いたいた」
声がした。
思わず固まる。
顔を上げると、廊下の入口に五条先生が立っていた。
「これ、恵とひよりに。明日の任務についてね」
五条先生はそう言って、任務書を手渡してくる。
その後で、俺と俺に寄りかかって眠っているひよりを交互に見る。
「……もしかして、お邪魔だった?」
「……そんなこと、ないですけど」
「あらあらあら?」
「……五条先生」
五条先生は面白そうに身をかがめてくる。
それから俺の顔を覗き込んだ。
「うまくいったんだね」
「……」
何か反論しようとして、言葉が止まる。
ひよりは相変わらず寝ている。
肩に乗る重みが、やけに意識される。
五条先生はその様子を眺めながら、楽しそうに目を細めた。
「おめでとう」
間を置いて、くすくすと笑う。
「念願の彼氏じゃん」
「……うるさい」
五条先生はひよりを一度見て、それからまた俺を見る。
「大事にしてんだね」
返す言葉がない。
五条先生はそれを確認するみたいに、軽く頷いた。
「いいんじゃない? そのまま世話焼いてあげなよ」
それだけ言うと、くるりと踵を返す。
歩きながら、ひらひらと手を振った。
五条先生は廊下の向こうへ消えた。
静けさが戻る。
ひよりの寝息だけが聞こえる。
肩に乗る重みは、さっきと変わらない。
「……ったく」
小さく呟く。
それでも、体をどかす気にはならなかった。
このまま共有スペースで寝かせておくのもどうかと思い、俺は小さく息を吐いた。
「……ひより」
呼んでも、やっぱり起きない。
仕方なく体を支えて立ち上がると、ひよりは目を覚ます気配もなく、無意識に俺の袖を軽く掴んだ。
完全に寝ぼけている。
そのまま廊下を歩き、ひよりの部屋まで運ぶ。
ベッドにそっと寝かせて、布団を肩までかけた。
前髪が目にかかっているのに気づき、指先で軽くつつくようにしてどかす。
起きないのを確認してから、ようやく耳の横へ押しやった。
その時だった。
「……恵」
小さな声が聞こえた。
ひよりは、目を閉じたままだ。
ただの寝言のようだった。
「……」
思わず手を止める。
ひよりはそれ以上何も言わず、また静かな寝息に戻った。
「……どんな夢見てんだよ」
小さく呟くと、思ったより穏やかな声が出た。
灯りを落とし、そっと部屋を出る。
廊下には夜の静けさが広がっていたが、不思議と、さっきまでより落ち着いた気分だった。
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