12.変わるものと変わらないもの

 書きかけのレポートを閉じた。内容は頭に入っているはずなのに、手が止まる。視線だけが同じ行をなぞっているのが分かって、諦めるようにペンを置いた。紙の上に残った文字が、やけに遠く感じる。
 椅子の背に体を預けて、息を吐く。
 今日は任務も授業もない日だったからか、時間の流れがゆるい。焦る必要もないのに、なぜか少しだけ落ち着かなかった。
 悪い気分じゃなかった。むしろ、何かを待っているような感覚に近い。
 コンコン、と控えめなノックの音がした。

「恵」

 顔を覗かせたのは、ひよりだった。

「……どうした」

 そう聞きながら立ち上がると、ひよりはドアをもう少し開けて、中に入ってくる。
 手には、湯気の立つマグカップが二つ。

「ココア、作ったの」

 そう言って、少しだけ嬉しそうに持ち上げて見せた。

「マシュマロ入れてるやつ」

 カップの表面には白い塊が浮かんでいて、少しずつ溶けて形が崩れている。昔から変わらない、ひよりの好きな飲み方だった。

「……珍しいな、わざわざ持ってくるの」
「そう?」

 ひよりは少しだけ首を傾けてから、小さく笑った。

「たまにはいいかなって」

 それ以上は説明しない。けれど、理由は何となく分かった。

「……入れよ」

 そう言って、机の方に視線をやると、ひよりは素直に頷いて中へ入ってきた。
 俺の分のマグカップをローテーブルに置いて、並ぶようにベッドに座る。部屋の中に、ふわっと甘い匂いが広がる。
 ひよりは、すぐに飲むわけでもなく、ただ自分のマグカップを両手で包むように持ったまま、しばらく黙っていた。

「……何かあったか」

 先に聞くと、ひよりは少しだけ視線を落としたあと、ゆっくり顔を上げた。

「ううん、そういうんじゃないんだけど」

 否定する声は落ち着いている。けれど、そのまま何も言わないわけでもなかった。

「……恵とさ」

 言いかけて、一度言葉を区切る。

「恋人になったじゃない?」
「ああ」
「それは、ちゃんと嬉しいし……よかったなって思ってる」

 当たり前のことを、わざわざ言葉にするみたいな言い方だった。

「でもね」

 少しだけ視線が揺れる。

「こういう時間も、なくしたくないなって思って」

 マグカップの中を見ながら言う。溶けかけたマシュマロが、形を変えながらゆっくり沈んでいく。

「前みたいに、普通に話したり、こうやって一緒に何か飲んだりする時間」

 顔を上げる。

「それも、大事にしたいの」

 真っ直ぐな言葉だった。ただ、自分の中の大事なものを、そのまま出しているような素直な気持ちが乗った言葉。

「……別に、なくならねぇだろ」

 そう言うと、ひよりは少しだけ安心したみたいに息を吐いた。

「うん。そうなんだけど」

 言いながら、少しだけ笑う。

「変わっちゃうのかなって、ちょっと思ってた」

 その言い方に、少しだけ考える。確かに、何も変わらないわけじゃない。

「……変わるだろ」

 正直に言うと、ひよりは一瞬だけ目を丸くした。けれど、すぐに言葉の続きを待つ顔になる。

「変わるけど、全部が変わるわけじゃねぇよ」

 ひよりは黙って聞いている。

「今みたいなのも、そのままだし」

 少しだけ視線を外す。

「……それとは別に、変わる部分もあるってだけだろ」

 言い終えると、ひよりはじっとこちらを見たまま、何も言わなかった。その沈黙が、やけに長く感じる。

「……何だ」
「ううん」

 小さく首を振る。

「恵らしいなって思って」

 そう言って、ひよりは少しだけ笑う。そのまま、マグカップに口をつける。ひと口飲んで、少しだけ目を細めた。

「……甘い」
「お前が作ったんだろ」
「うん。でも、こういうのがいいの」

 そう言って、また一口飲む。それを見てから、俺も自分のカップに口をつけた。甘ったるい味が広がる。だけどそれが嫌じゃなかった。

「……たまにはいいか」

 そう呟くと、ひよりがくすっと笑う。その空気は、確かに前と同じだった。けれど、完全に同じでもない。
 ひよりの視線が、時々こちらに向く。何かを確かめるみたいに。そのたびに、少しだけ意識が向く。

「……さっきの話だけど」

 ひよりが、ふと思い出したみたいに言う。

「変わる部分って、どこ?」
「……」

 少し考える。言葉にするのが面倒な類のやつだ。
 けれど、ひよりは待っているようだった。逃げる気もないらしい。

「……例えば」

 マグカップを机に置く。

「今みたいに座ってるだろ」
「うん」
「これ、前と同じに見えるかもしれないけど」

 ひよりが首を傾ける。

「……正直、近ぇと思ってる」

 一瞬、空気が止まる。ひよりの指が、マグカップの縁で止まる。

「前は、こんなに気にしなかった」

 続ける。

「今は、普通に触れる距離にいると、ちょっと考える」

 ひよりが、ゆっくり瞬きをしながらこちらを見る。

「……何を?」
「触っていいのか、とか」

 言ったあとで、少しだけ間が空く。ひよりの頬が、ほんの少しだけ赤くなる。

「……いいよ」

 小さく返ってくる。それでも、以前のように無自覚な軽さはなかった。
 向き合って、少しだけ距離を詰める。ひよりは逃げる気配もなく、ただ見上げてくる。
 そのまま手を伸ばして、ひよりの手に軽く触れる。指先が触れているだけだったが、それでも前とは違う。
 ひよりの呼吸が、少しだけ変わるのが分かった。

「……こういうのも、増える」

 低く言うと、ひよりは何も言わなかった。ただ、指先に少しだけ力が入る。
 それを確認してから、少しだけ引き寄せた。距離が近くなる。ココアの甘い匂いが、さっきよりはっきりする。

「嫌じゃねぇだろ」

 聞くと、ひよりは小さく頷いた。

「うん」

 その返事を聞いてから、ほんの少しだけ顔を近づける。急がずそのまま、軽く唇を重ねる。すぐに終わるような短いものだった。
 離れると、ひよりはまだ少しだけぼんやりした顔でこちらを見ていた。

「……これも、変わったとこ」

 そう言うと、ひよりは少しだけ遅れて、小さく笑った。

「……うん」

 その声は、さっきよりも柔らかい。
 部屋の中には、まだココアの甘い匂いが残っている。変わらないものと、変わっていくものが、同じ場所に混ざっているみたいだった。
 ひよりはマグカップに視線を落としたまま、さっきよりもゆっくりとした動きでそれを持ち上げる。けれど、口をつける前にふと止まった。何か言いかけて、やめるみたいに。
 その仕草が目に入って、無意識に視線を向ける。

「……どうした」

 声をかけると、ひよりは少しだけ迷うように目を伏せて、それから小さく首を振った。

「ううん、何でもない」

 そう言うわりに、さっきより落ち着かない。カップの縁を指でなぞるみたいに触れて、視線が揺れている。

「何でもない顔してねぇだろ」

 少しだけ呆れたように言うと、ひよりは一瞬だけこちらを見て、それからまた逸らした。

「……ちょっとだけ」

 小さな声で言う。

「さっきの、もう一回してほしいなって思っただけ」

 言い終わってから、少し遅れて頬が赤くなる。自分で言って照れてるのが、そのまま出ている。

「……」

 言葉が出なかった。さっきまでの空気とは違う種類の静けさが落ちる。変わったのは、距離や関係性だけじゃない。ひよりの内面もだ。

「……言うようになったな」

 そう言うと、ひよりは少しだけ困ったみたいに笑った。

「恵が、言えって言うから」

 その返しに、わずかに息が抜ける。

「……自分で言っといてなんだけど」

 少しだけ視線を落とす。

「毎回それやられると、困る」
「何で」
「……わかるだろ」

 短く返して、手を伸ばしてひよりの顎に軽く触れる。無理に上げさせるわけじゃなく、ただ、視線を合わせるためだった。
 ひよりは逃げなかった。少しだけ緊張したまま、こちらを見る。
 そのまま距離を詰めた。今度は一瞬じゃない。触れたあと、少しだけそのまま留まる。
 ひよりの指が、さっきと同じように服を掴む。離れようとしない。
 そのまま、少しずつ深くしていく。ひよりの服を掴む力が強くなるのがわかる。舌先で唇を味わうと、ひよりの口の中の甘さが伝わってくる。
 しばらくしてからゆっくりと離れた。ひよりは何も言えないのか、ただこちらを見ている。さっきよりも、熱を含んだ潤んだ目で。

「……満足か」

 そう聞くと、ひよりは一拍遅れて、小さく頷いた。

「……うん」

 その声は、少しだけ掠れていた。さらりとひよりの髪の毛をなでる。

「……ココア、冷めるぞ」

 そう言うと、ひよりははっとしたみたいにカップに視線を戻した。一口飲んだあと、しばらくそのまま、ぼんやりとした顔で持っている。

「……甘すぎるかも」

 ぽつりと呟く。

「さっきと同じだろ」
「うん。でも、なんか違う」

 その言葉に、少しだけ笑いそうになる。

「……そうかもな」

 そう言って俺もカップを手に取ると、ひよりも何も言わずに自分のカップに口をつけた。
 部屋の中は変わらず静かで、ただ少しだけ、空気の温度が上がっている気がした。
 ココアの甘い香りが、しばらく部屋には漂っていた。


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