導かれた森底の扉の奥へ
朝、目を覚ましたとき、最初に耳に入ったのは鳥の声だった。高専の寮で聞くものとは違う。どこか規則から外れた、不揃いな響き。それなのに、不思議と調和している。山そのものが、ゆっくりと呼吸しているような気配だった。
夏油はしばらく布団の中で天井を見上げていた。障子越しの光はまだ淡く、夜の冷たさをわずかに残している。空気が澄んでいて、どこか現実感が薄い。
昨夜のざわつきは、完全には消えていなかった。ただ、形を持つほどではない。朝の静けさに溶けて、輪郭だけが曖昧に残っている。
身支度を整えて廊下へ出ると、すでに台所の方から微かな物音がしていた。
花名だった。
袖を軽くたくし上げ、湯気の立つ鍋を見ている。昨夜の浴衣とは違い、飾り気のない装いだった。それでも、不思議と目を引く。
気配に気づいたのか、振り向く。
「おはよう、傑くん」
「おはようございます。……早いですね」
「山は朝が早いの」
そう言って、柔らかく笑う。
椀を並べる手つきは迷いがない。巫女としての所作ではなく、この家で長く暮らしてきた人の動きだった。
「悟くんはまだ寝ているみたい」
その言葉とほとんど同時に、廊下の奥から足音が近づく。
「起きてるけど?」
欠伸を噛み殺しながら、五条が姿を見せた。髪にはまだ寝癖が残っている。
「いい匂いするな」
「簡単なものだけれど」
三人で卓を囲む。朝食は質素だった。味噌汁と焼き魚、山菜の小鉢。だが、口に運ぶと自然に箸が進む。
「ここ、時間ゆっくりだな」
五条がぽつりと言う。
「そう感じる?」
「うん。東京戻ったら絶対だるい」
軽い口調に、花名がくすりと笑う。夏油は黙って味噌汁を口に運んだ。
静かな朝だった。言葉が途切れても、気まずさはない。ただ同じ時間を共有しているという感覚だけが、穏やかに続いていた。
食後、三人は山へ向かった。屋敷の裏手から続く細い道を、花名が先導する。木々の間を抜ける風は涼しく、陽の光が葉の隙間から揺れて落ちていた。足元の土は柔らかく、踏みしめるたびにわずかな音がする。
「この辺りから流れが変わるの」
花名が立ち止まり、地面へ視線を落とした。夏油も同じように意識を巡らせる。確かに、わずかな歪みがある。目には見えないが、確実にそこに存在している。
「人が入った跡ですね」
「ええ。ここ数年、登山道が整備されてから増えたの」
五条が周囲を見回す。
「悪気なく荒らすやつが一番面倒なんだよな」
軽く言ったが、その声音には鋭さが混じっていた。
花名は近くの木に手を添える。触れるというより、確かめるような仕草だった。まるで挨拶を交わしているかのように、自然だった。
夏油はその様子を見ていた。この人は、山を守っているのではない。山と、同じ場所に立っている。その事実が、ふと腑に落ちる。
そのとき、小さな気配が動いた。枝の影がわずかに歪む。低級の呪霊だった。形を保つのもやっとの、不安定な存在。
夏油が一歩前へ出る。逃げようとした呪霊の動きが、不自然に止まった。見えない圧に押さえつけられたように、その輪郭が揺れる。
夏油は静かに手を伸ばす。触れる直前、抵抗は消えた。呪霊は黒い塊へと収縮し、掌の上で小さな球となる。ためらいなく、それを取り込んだ。空気が、静かに戻る。
花名がその様子を見つめていた。
「……本当に、祓えるのね」
その声には、わずかな驚きが混じっている。夏油は小さく頷いた。
「ええ。もう問題ありません」
花名はゆっくりと息を吐く。
「頼もしいわ」
その言葉は軽いもののはずなのに、夏油にはなぜか深く残った。
帰り道、五条が少し先を歩いていた。枝を払いながら、気ままに進んでいく。
自然と、夏油と花名の歩幅が揃う。
「毎日、こうして山に?」
「ええ。見て回らないと落ち着かないの」
「大変ではありませんか」
花名は少しだけ考え、それから首を横に振った。
「……大変と思ったことはないわね。やらないと、山が静かじゃなくなるから」
当然のように言う。その横顔を見ながら、夏油は言葉を探した。だが、適切なものは見つからない。
代わりに、ただ歩く。風が葉を揺らし、光が足元で砕ける。屋敷が見えてきたとき、花名がふと振り向いた。
「二人が来てくれて、少し楽になっているの」
独り言のような声だった。五条が振り返る。
「そりゃよかった」
軽く笑う。夏油は何も言わなかった。言葉にしてしまえば、この時間の輪郭がはっきりしすぎてしまう気がした。
山は今日も静かだった。
その静けさの中で、気づかないうちに、三人の距離だけがわずかに変わっている。それが良い変化なのかどうか、まだ分からない。
ただ――そのままでいたいと思う自分がいることだけは、確かだった。