心に咲いた感情という花
午後の光は、山に入ると柔らかく形を失う。
結界の補強を終えたあと、五条は「上、少し見てくる」と軽く手を振って山道の方へ消えていった。呪力の流れを確認すると言っていたが、半分は散歩のようなものだろうと夏油は思う。あの男は緊張感の薄い態度のまま、必要なことだけは外さない。
屋敷へ戻ると、庭先から布の擦れる音が聞こえた。覗くと、花名が軒下に立っていた。白い布を一本ずつ縄へ掛け、風向きを確かめながら位置を整えている。
祭で使うものなのだろう。袖を少しだけたくし上げた仕草は、巫女というより、この家で日々を営む人の動きに見えた。
花名が気配に気づき、振り向く。
「傑くん。もう終わったの?」
その声には、距離を測る響きがなかった。来客としてではなく、自然にそこにいる者へ向ける声音だった。
「ええ。一通りは」
「よかった」
安心したように微笑み、それから少しだけためらうように視線を落とす。
「もし時間があるなら、少し手伝ってもらえる?」
夏油は頷き、庭へ降りた。
近づいてみると、布には細かな刺繍が施されているのが分かる。鈴や波紋を模した文様が、傾き始めた陽の光を受けて淡く揺れていた。飾りではなく、術式として意味を持つ印なのだろう。
二人で並んで布を整える。
風が吹くたび白布がふくらみ、互いの肩が触れそうな距離になる。花名はそれを意識している様子もなく、結び目の緩みを確かめながら、静かに手を動かしていた。
「祭の準備は、毎年一人で?」
夏油が尋ねる。
「ええ。昔は、もう少し手伝いもあったんだけどね」
言い方は軽い。だが、その先に続くものがないことで、かえって長い時間の重みが伝わった。
夏油はそれ以上聞かなかった。聞けば、言葉にしなくてもいいものまで形を持ってしまう気がしたからだ。
沈黙が落ちる。けれど、それは少しも不自然ではなかった。布を広げる音と、風の気配だけが穏やかに続いている。
しばらくして、花名が小さく笑った。
「こうして誰かと準備するの、久しぶり」
独り言のような言い方だった。夏油は布の端を整えながら答える。
「慣れていないと、逆に落ち着かないものではありませんか」
花名は少し目を細める。
「ふふ、そうかもしれないわね」
その声は、先ほどよりも少しだけ柔らかかった。
脚立へ上がろうとした花名の足元が、わずかに揺れる。反射的に夏油が腕を伸ばし、肩を支えた。
体が近づく。一瞬だけ、視線が重なる。驚くよりも先に、花名は笑った。
「ありがとう」
夏油は静かに手を離す。だが、指先に残った感触までは簡単には消えなかった。その余韻を意識する自分に、わずかな違和感を覚える。
作業を終えるころには、山の稜線が橙色に染まり始めていた。二人は縁側へ腰を下ろす。庭を通る風が、白布をゆるやかに揺らしていく。
「この時間が好きなの」
花名が山を見たまま言った。
「祭の前って、山が静かになるのよ。全部が少しだけ息を潜めるみたいで」
夏油も同じ方角へ視線を向ける。確かに、到着した日の重苦しい圧は薄れていた。呪力そのものが消えたわけではない。だが、荒れ方が違う。均衡がほんのわずかに整い始めているのが分かる。
そのとき、足音が近づいた。
「お、なんかいい感じじゃん」
五条が戻ってくる。汗ひとつかいていない顔で縁側に腰を下ろし、庭を見渡した。
「山、さっきより静かだな」
何気ない口調だった。だが観察は正確だった。
花名は少し驚いたように瞬く。
「……そう?」
「来た初日より全然マシ。暴れる前の空気じゃない」
五条はそう言って空を見上げる。軽く流したように見えるのに、要点だけは外さない。
花名は山の方へ目を向けた。胸を圧していた見えない重さが、確かに今は少し遠い。
夏油が静かに口を開く。
「結界の補強も影響しているでしょうが、それだけではありませんね」
花名が視線を向ける。夏油は少し考えてから続けた。
「あなたの術式が、働きやすい状態になっている」
「……働きやすい?」
「均衡を支える力が、一つではないということです」
淡々とした口調だった。誇るでもなく、慰めるでもなく、ただ事実として置かれた言葉。
花名はしばらく黙っていた。自分一人で山を支えていると思っていた時間が、ふいに遠く感じられる。ずっと背負うしかなかったものへ、別の手が触れた感覚だった。胸の奥が、わずかに軽くなる。
「……そうかもしれないわね」
小さく笑う。その表情は、今までより少しだけほどけて見えた。
五条が伸びをする。
「ま、俺ら優秀だからな」
「自分で言うな」
夏油が淡く返す。花名がくすりと笑った。
夕暮れが三人を包む。山は静かだった。
任務は順調だ。均衡も保たれている。問題はないはずだった。
それなのに、夏油の胸には言葉にならない感覚が残っている。この時間が続けばいいと思ってしまうこと。そして、それが長くは続かないと、どこかで理解していること。
空の色はゆっくりと沈み、夜が近づいていた。