月涙に迫る水の音は鳴り止まず

 奉納の舞を翌日に控えた夜、屋敷は不思議な静けさに包まれていた。昼間まで続いていた祭の準備の気配は消え、広い廊下には風の音だけが残っている。
 軒先に吊された鈴が、時折かすかに鳴る。その音だけが、明日という日を静かに告げていた。
 客間で本を開いていた夏油は、しばらく頁を進められずにいた。山の呪力は安定している。任務としては順調だった。結界も機能している。均衡は、いまのところ崩れていない。
 それでも、胸の奥が落ち着かなかった。理由は分からない。ただ、どこかで何かを待っているような感覚だけが、静かに残っている。
 ふと、縁側の方から気配がした。夏油は立ち上がり、廊下へ出る。障子を開けると、夜気が静かに流れ込んだ。
 縁側に、花名が座っていた。月明かりの中、ほどいた髪が肩へ落ちている。昼間の凛とした巫女の姿とは違い、どこか無防備に見えた。
 花名が振り向く。

「あら。まだ起きていたのね」
「ええ。少し眠れなくて」

 夏油はそのまま縁側へ歩み寄る。

「……明日が舞だから、眠れないんですか」

 花名は小さく笑った。

「隠せていなかった?」
「屋敷全体が、待っているように感じたので」

 その言い方に、花名はわずかに目を細める。花名は膝を抱え、庭へ視線を戻した。

「前の日の夜になるとね、いつも少し息苦しくなるの」

 風が木々を揺らす。

「怖いというより……逃げられないって思い出すの。舞うのは私しかいないって」

 静かな声だった。その中にあるものを、説明する必要はなかった。
 夏油は隣に腰を下ろす。距離は近すぎず、遠すぎない。意識すれば気づく程度の、曖昧な間隔を保った。
 しばらく沈黙が続いた。虫の声だけが夜を満たす。
 やがて、花名がぽつりと口を開いた。

「でもね。今年は少し違うの」
「違う?」
「同じことをするはずなのに、肩に乗っている重さが……前より軽い気がするの」

 言葉を探すように、少し間を置く。

「……あなたたちが来てくれたから」

 視線は庭に向けたままだった。

「山が落ち着いたのもそうだけど、それだけじゃなくて」

 白い指先が、着物の裾をそっと握る。

「一人で立っている感じがしなくなったの」

 静かな告白だった。夏油はすぐには答えなかった。その言葉の重さを、そのまま受け取る。

「任務だって分かってる。でも、それでも……来てくれて、本当に助かってる」

花名は少し笑う。

「悟くんも、賑やかで楽しいし」

 そのあと、ほんのわずかに声の温度が変わる。

「傑くんがそばにいてくれると、落ち着くの」

 夜風が二人の間を通り抜ける。夏油は視線を庭へ向けたまま言う。

「それは、あなた自身が落ち着いているからですよ」

 花名が首を傾げる。

「そうかしら」
「ええ。あなたは最初から動じていなかった」

 少し間を置く。

「普通なら、もっと恐れていてもおかしくない状況です」

 花名は驚いたように瞬きをする。夏油は言葉を続けた。

「それでも役目から逃げない。……強い人だと思います」

 飾り気のない、率直な言葉だった。花名はしばらく何も言えなかった。やがて、小さく笑う。

「そんなふうに言われたの、初めてかもしれない」

 夜空を見上げる。

「皆、すごいとか、大変ねとは言ってくれるけど……強いって言われたことはなかった」

 その声音には、長く触れられなかった部分に触れられたような、かすかな揺れがあった。

「なんだか、報われた気がする」

 夏油は静かに言う。

「報われていいと思います」

 花名が視線を向ける。

「あなたが続けてきたことは、確かに誰かを守ってきた結果でもあるはずです」

 その言葉に、花名は目を細めた。

「……傑くんって、優しいのね」
「そうでしょうか」
「うん。押しつけない優しさを持っている人」

 月明かりが、わずかに強くなる。花名はゆっくりと立ち上がった。

「明日、長い一日になるわ」
「ええ」

 歩き出しかけて、ふと振り返る。

「傑くん」
「はい」

 ほんのわずかな間。言葉を選ぶように、視線が揺れる。

「そばにいてくれて、嬉しい。……ありがとう」

 それは、巫女としての言葉ではなかった。一人の人間として、まっすぐに向けられたものだった。
 花名はそのまま廊下の奥へ消えていく。足音が遠ざかり、再び静けさが戻る。
 夏油は縁側に残り、庭を見つめた。山は静かだった。任務も順調だ。均衡も保たれている。それでも、胸の奥だけが落ち着かない。
 明日が終われば、この時間も終わる。その事実を、はっきりと惜しいと感じてしまった。
 ゆっくりと目を閉じる。
 消えることのない感覚が、静かに残っている。それが何なのか、まだ言葉にはできなかった。