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「おう、やっと来たな」

 診察室に入り、時計をちらっと見ると、午後六時を十分ほど経過していた。六時三十分には診察が終了する。まあいい。話すことはたった一つだ。

 遅れたことを謝りもせずに俺は目の前に座る。向き合った孝信は、いつも通り職業と自己が入り混じったような眼をしていた。

「今週、何か楽しい事はありましたか?」
「いいえ、別に」
「食事は摂りましたか?」
「いつも通り、昼を」
「睡眠は?」
「昨日、夢を見た」

 孝信に夢の話をするのは初めてだ。これが、最初で最後だ。
 いつもと同じはずの壁の白や白衣の白がとても眼に付いた。孝信の、サービス業の笑顔や優越。これで、充分だった。

「どんな?」
「昔の夢。事件前の変化と事件を、繰り返し繰り返し俺は何度も見てきたんだ」
「昔の…火事の?」
「そう。
 でも不思議だよな。夢では確かに見ていて意識もしているのに、もう兄の顔なんて現実では覚えていないんだ」

 兄と過ごした時間よりも、一人の時間の方が長いからだ。何年も前から気が付いていたのに。

「どういう、夢なんだ?それは、はっきりとしているのか?」
「ああ。昨日の事のようにな。だけど、俺には抜けがあったんだ」
「抜け?」
「…なぁ孝信。お前、昨日は用事でもあったのか?行きなり診察の日を変えるなんて」

 いきなり投下した前後に関連性のない質問に、孝信は面食らったような顔をしたが、すぐに考えて、「別の人の診察をしてたよ」と答えた。

「昨日、お前が言っていた山崎と飲みに行ったよ。山崎に誘われてな」
「ほお、どうだった?」
「好きだと言われた」
「あぁ、へぇ!で、で?」
「断った。
 なぁ、お前に聞きたい事があるんだ。俺からは“死臭”がしたりするか?」
「と、言うと?」
「彼女はなぜだか、俺の過去を詳しくではなかったけど知っていたんだ。誰にも話したこともないしそんな素振りも見せていないつもりだったのにな」

 調子を変えて孝信にカマを掛けてみる。

 そう、それはまさしく患者そのもののような態度に写るように。孝信は、眼を見据えて口元で笑い、「へぇ」と短く言った。

「死臭が漂ってないと言えば、嘘だな。だがその変化は、俺くらいにしかわからんと思う。お前は、普通に暮らせてるよ?病状だって良くなってる。それはお前だって感じているだろう?」

 ああ、そうやって“俺のお陰”みたいな顔しやがって。偽善のような笑みも下手なシラの切り方も。俺は十年以上もそれを見てきたんだ。

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