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 石段の中頃で朱鷺貴が「はぁぁ」と、疲れたようにその場に座り込んだ。

 仕方なく翡翠も隣に座り「疲れましたか」と聞けば、
右手に頬を乗せて「ん、」と、左手をだらしなく翡翠に伸ばしたので、「はいはい」と、翡翠は要望に応える薬箱を起き引き出しから煙管《キセル》を出して葉を詰め、摺付木《マッチ》と共に朱鷺貴へ渡した。

 自分も吸うかと翡翠も煙管を出して葉を詰めれば、火打で火をつけこちらに摺付木は返された。

 ぼんやりと嗜好品をたしなむものの、吐かれる朱鷺貴の紫煙は溜め息に近いものだった。

「なんだかなぁ」
「胸糞悪い言うやつですか」
「うん、そうねぇ」
「当然、だったのやもしれませんよトキさん。確かにわてらに出来る事などない」
「まぁねぇ…」

 言いながら朱鷺貴は燃えカスを空け、煙管を石段に置いては懐から経文を出す。

「『知ることもなければ、得ることもない。得ることもないのだから、悟りを求めている者は、知恵の完成に住する』やっけ」
「うん」

 経文を膝に置いて朱鷺貴は、黙って目を閉じ手を合わせる。

 ならばと翡翠もならって、文章などは覚えていないが目を閉じ手を合わせ、頭の中で「般若心経般若心経」と唱えた。

 八鶴と西運、心を閉ざした八景へのせめてもの言葉だった。弔いと労いと様々な思惑は、声を挙げるほど出来たものではないのだと、そう考えて。

 亡き人、在りし人を思い漸く終わって「よし、」と朱鷺貴が言ったので翡翠も目を開けた。

「さあ行くか。朝だし酒でも飲むか」
「そのような気分で?」
「あぁ。凄く憂鬱だ」

 非常に素直な言葉だと翡翠は感じた。確かに、それはわかる。

「そしたらお一人の方がよろしいでしょう。わても一人、買い物にでも出掛けます」
「気が利くなお前」
「従者ですさかい。トキさんはしかし友人です、汲みましょう。せやからはい、お金をください」

 笑顔で手を出してきた翡翠に「ちっ、」と言いながら、

「色宿は閉まっているしまぁ良いだろ。博打なんかに使ったのがわかったら殴るからな」
「あんさんそんなこと考えてたんですか、わてより欲深い。
 大丈夫や。旅準備と、
お薬と葉っぱを買ってきますんで少々お高めにくだされば幸い」
「…良い性格してるよホンマ」
「いや、事実やで。着いて来ますか?」
「いい。ほれ」

 朱鷺貴は銭入れから、
本当に酒代くらいを抜いて銭入れを翡翠に寄越した。
 これは本当になんだか、遊びに使えないなぁと翡翠は苦笑した。

「お昼くらいには発ちますか?」
「そーだね」
「では街まで。あとは解散しましょ」

 また来た街へ戻り、各々解散した。

 とは言っても正直互いに宛はなく。朱鷺貴は案外あっさりと酒だけを買うも、しかし寂しいなと思いつつ宛がない。まぁすぐに翡翠も帰るだろうと元の宿屋に戻る。

 翡翠も翡翠で、さぁ何が足りなかったかなと考えて店に寄り、漢方やらも調達出来る物はして、あっさり宿屋に帰ろうとするも。

 はて。

 宿屋のあたりで妙な気配を、感じたように思い立ち止まれば。

 ふいに手を引かれ宿屋と、何か商店の間にあった路地に連れ込まれた。背後を取られて口を塞がれるが気配で察した。

 義兄、藤宮鷹だ。

「若様…?」

 睨み付けて微かに振り返れば、空気で相手が微笑んだのが理解出来る。

 ただ鷹は一言、「まぁ騒ぐな。騒ぎになる」と言ったので、そのまま引かれるように路地に入る。

 完全に少し通りから離れて漸く肘打ちをかますも、当たり前ながら取られ払われる。
 動きにくさに翡翠は薬箱を、その場にあった木箱の上に置いてから鷹と対峙する。

 鷹は「くっくっく」と、挑発するように笑うのだった。

「何用ですか。まだ近江にいたのですね」
「まぁなぁ。夜やったし発てんかったな。発とうとすれば見知った背中が寺へ向かったんで待ち伏せてみた」
「…昔からしつこいですなぁ。嫌われますよ。かみさんでも見つけたら如何やろか」

 少し戦闘意識になるも鷹の薄ら笑いに「おもろくない冗談やな」と言われ、さっと手首を取られては商店の壁に身体を打ち付けられた。

 何用か、そう言うことかと近付けられた顔を背けるも、首筋、耳元辺りで囁かれる、「何用かなんて、わかるやろ」と。

「…若様、わてはもうあんたの言いなりになる謂われはないのです」

 しかしこんな時に忌々しい。
 昔植え付けられた教育はいざというときに身を守らず、なんならこうして邪魔をする。少しの恐怖すら翡翠の潜在意識を浮遊して身体が動かない。

 いくらでも、
例えばいま熱を感じるそれを、膝を上げて攻撃すれば間違いなく振り払えるが、それをわかる上で義兄は笑い、「案外、しつこいのは嫌いじゃないだろ、水鶏」と囁かれてしまえば完全に翡翠の思考は、嫌悪を無視して停止してしまった。

「…若様、堪忍してください」

 その心底嫌そうなのが、
もらわれて間もない幼き頃の、熱に浮かされながら父親に汚されるこの義弟を見た背徳を思い出して義兄は堪らなくなる。
 あれから幾分かしても初めて見てしまい欲を吐いたあの恍惚と背徳を忘れられず、それだけがこの男の刺激としかならなくなった。

 女を抱こうも男を抱こうも、あの甘美さには辿り着かないでいる鷹の欲求などただ一つだ。

「ただでとは言わないよ」

 剥がれる肩とそれを食む熱い鷹の息にやりきれず己を殺す。
 あげられた片足の苦無は意識をも掠めず、翡翠は眼前にある宿屋の壁の木目を何もなく捉えて、それでも飾りなく出てきた風景は。

 血塗れの父を前に、抵抗しながらもあの代官に殴られ、犯された母の悲痛とその後までを、押し入れで震えて眺めた日の自分やら、這い出した後に生きていたか死んでいたかわからなくもただ、助けを求める気力なく戸を、何もなく眺めた何日かだった。

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