6


 頭の中は空虚に近い白で呼吸はままならない。
 獣のような男は倦怠感に語る。

「藤嶋《ふじしま》と薬坊主が手を組んだわ」

 と。
 真っ白が急速に冷えた。ただ「…は?」と、覇気無く壁に凭れるように座り込み翡翠は呟いた。

「それは…」
「あぁ、それと手を組む寸法や」

 多少乱れた自分の着物を、また何事もなく直して鷹は冷淡に言い捨てた。

「お前、藤嶋に捨てられたんよ」
「…そんなことを言いにいらっしゃったのですか」
「まぁな、あんまり我が儘が過ぎるんで、少しばかり不憫に思えてな」
「そんなの…、」
「しかしなぁ、お前はこれで口を割ると、父は昔言ったんやけど。あの色狂いはどうやったもんかなとね」

 品がないとはこの事だ。
 翡翠はしかしそれを鷹に言うだけの体力はなかった。半ば酸欠で腰痛だ。

 アホ臭いがしかしそれも事実か。そのような糞程の理由でこいつの父は自分を汚し続けたかと、怒りよりも呆れが来た。

 残念だがそれ目的ならば自分は麗しくなど無い。ただ交わりの息の仕方しかわからんわ。静かな情婦だと揶揄される程に。

 鷹は振り向きもせず飄々と自分を置き去りにするように街へ消えていった。

「…っはぁ、」

 漸く息を吸った気分だ。
 それから息を思い出して過呼吸になった。低酸素に良くない行為で。胃液が込み上げ「うぇっ、」と、その場でしばらく嘔吐した。

 酸素が足りなくなるばかり。吐くものが無くとも込み上げては生理的に涙が出る。

 苦しい。

 こんなのあの日の飢えた自分と変わらない。閉ざしていたものが眩暈に混じって込み上げてくる。
 誰も生きていない。

 あの日の絶望から翡翠はしばらく声を失った。それから繰り返された情交がそれだと言うなら最早今立ち上がる気力すらなく、
ただの嫌悪がちかちかと浮かぶ。
 一通り吐き終えて立ち上がろうにも、痛みやら何やらで体制は崩れ、木箱も掴めずぶっ倒れる。

 急速に視界は暗くなる。
だが意識がまだあることに、「ふっ…うぅ…っ、」泣くことしか出来ない。

 どうしようもないこの虚無から抜け出せない。あの日死んだまま眺めた戸が開いた瞬間の気持ちばかりが押し寄せる。

 誰でも良いから殺してくれ。
 地獄のような苦しみばかりが思い出されるが、

「…い、ど…た。大丈夫か、おい、」

 聞き慣れた低い声に光がちりばむ視界を開ければ。

 髪がぼさぼさの若い、左目の泣き黒子の坊主が自分を見下ろしている。頭を抱えられてるのが分かればそのまま袈裟を両手で握り身を縮め「くぅぅ…っ」込み上げる。

 それから血液が廻った気がして「はぁぁっ、うぅ、」と、呼吸を繰り出せば息が出来ない。

 はぁはぁと苦しそうな従者の体温が驚くほど冷たくて朱鷺貴は心底焦るが、こいつの息を殺す呼吸のように、無理に不安を縛り付けて冷静に把握する。

 少し半身を上げて腹に手を起き、「落ち着け、翡翠」と呼び掛ける。「ゆっくりな、ゆっくり息吸え」と指示を出す。

 息を殺すのを止め落ち着きが見え始めた頃に、「薬箱、」とだけ言う翡翠に、

「ダメだ、落ち着いてから。いいか上げるぞ、」

 肩に手を掛けてやればしがみついてきた翡翠の背を撫でた。

 辺りと着物が少し乱れた翡翠を見れば一目瞭然だった。
 その可能性を考えなかった己の愚かさを悔いる間もない。

 それどころでなくどうにか、まずは休ませるべきだと考え「落ち着いたら立つぞ、立てるか」と声を掛けた。|幹斎《かんさい》と共に生きたことがこんなことで役立った。自分は確かこうされたと、曖昧な記憶を朱鷺貴は引っ張り出す。

「あ、兄がぁ、」

 泣くように言う翡翠に、
やはりそうかと朱鷺貴は確信する。だが、

「今はいい。息をしろ。宿屋は目の前だ」

 冷静に朱鷺貴が告げたところで朱鷺貴の背から「あの、法師様、」と、慌てた女将の声がする。先程失神した翡翠を見つけてくれた女将に水を頼んだのだ。
 「おおきに女将さん、意識はありました」と朱鷺貴が後ろへ感謝をして告げられる。

「帰りが遅いから女将に聞いたらたまたま見つけてくれてな」

 心配そうだが怯えて覗き込んできた中年の女将は「はい、」と朱鷺貴に杯を渡した。
 それを「ほれ、」と口元に持ってこられて漸く受け取り水を落ち着いてすべて飲んだ。

 視界が漸く定まった。
 杯を女将に返してから「取り敢えず運びます」と朱鷺貴は告げ、翡翠は肩を借り立ち上がれた。少し立ち眩んだが先程よりはなんとかなる。

 薬箱を女将に頼みやっと宿屋に帰ってこれた。

 もう一泊と女将に頼む朱鷺貴に、「すまへん…」と、浮かされたように言う翡翠に。

「アホか」

 とだけ朱鷺貴は返した。どうしても、どう声を掛けたらいいかわからなかった。
 部屋に着き布団に寝かせた頃にはもう、具合が悪いが意識がはっきりしたもんで。
 久しぶりに魘されてしまったなとぼんやり翡翠は思った。

- 36 -

*前次#


ページ: