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なるほどな。
その幻想は声なき物かと、朱鷺貴は感慨を持ちその木箱を見つめる。木箱は簡素。上に紙に包まれた遺髪、あとは線香。弔いとしては、弔いではない。
「…その人はどうしたんですか」
やはり簡素だと毬を見れば、考えるのは翡翠も、そうらしい。
毬は哀愁ある仄かな笑みで木箱を、回想のように眺める。少しは落ち着いたような月日が、毬にはあったのかもしれないと感じた。
朱鷺貴はその木箱の前に胡座をかき、毬に言う。「どんな人なんだ」と。
見映えがまるで親族だと、その背中に翡翠も毬も思う。それくらいに朱鷺貴は自然な態度だった。
「経には戒名《かいみょう》というものが必要で、君がどう彼を弔ったのかは知らないが、戒名というものはその人の生きた証として名付けるものなんだ」
それから朱鷺貴は、毬を見上げて言った。
恐らくこのように質素、粗末な葬り方であれば、寺に戒名を貰いに行く、墓を建てるということをしてはいないだろう。あれには金が掛かる。
それは、どういう関係かはわからない、この家にその男が婿に入ったのか、娘が実家に帰ってきたものか。だとすれば毬が遺品を持つ理由も変わってくるし、墓や戒名は男の実家にあるのかもしれないが、毬の質素な雰囲気や常識で考えれば恐らくそれも違うのだ。
朱鷺貴は翡翠に「墨がいる」とだけ告げる。すぐさま翡翠は黙って薬箱から硯と筆を出して朱鷺貴に渡した。
朱鷺貴は墨をゆっくりと溶きながら促すように毬を見て「隣へ」と促した。
「どんな人…」
「例えば出生や生き方。見た所、故人は墓やら戒名は頂いてないのか?それによっても俺がする弔いが変わってくる」
「…そうですね。
出生で言えば彼は、隣の町の着物屋でした。私と彼は、そこで出会いました」
それから聞いた要点としては、
毬は男の着物屋に嫁ぐはずだった。しかし、目前で男、毬の旦那になるはずだった弥一郎《やいちろう》は、攘夷倒幕を掲げた仲間と共に脱藩をしてしまったらしい。
彼がいなくなって1週間ほど経った頃、木箱に入れられた首が毬の元に届けられたそうだ。弥一郎の一家や仲間の家は総じて死罪判決を受け、今は弥一郎の血が途絶えてしまった。
それが一年前のことらしい。
毬はやはり考え、せめて墓だけでもと思い、この傘屋の近くの寺に赴いたが、凄く迷惑そうに「いまは空きがない」と告げられ、
そうか、この人は厄介な事をしてしまったんだと実感し、せめてもの弔いに木箱へ土を入れ、墓としていままで置いといた、と言うことだった。
「この人は、とても真面目な方で、私を見てすぐに「好きだ」と言われました。屈託のない笑顔で、何度かここへ通ってくれました」
真っ直ぐに木箱を見て言う毬の姿勢は良く。
回想は淡々と語られる。思い入れにはとくとくと継ぐ美酒のような音を聴くような心境。
この娘はまだ踏ん切りが付かないのか、どこか溢れる美酒を垂れ流している。だからこそ、悲しみが少し、薄れているのか、廃れかけているのか。
葬るとは、また違う念がある。
しかしふと、
「まさかこんな形でご家族や、この人に再会するだなんて思わなかったんです」
拳が震えているのが見て取れた。
そうか。
「翡翠、」
呼べば翡翠は薬箱から1つの包みと、摺付木《マッチ》を朱鷺貴に手渡した。
それから朱鷺貴は毬に、「紙」とだけ告げる。何事かと見る毬の瞳が震えていたので、朱鷺貴は心の中で一息吐いてから「何でもいいから」と言う。
どこか無愛想にも、「俺なんかでよければ」と言う朱鷺貴の表情に慈悲を見たような気がした毬は、すぐさま、一度居間を出て工房として使う父の部屋に戻り、傘に使う余った紙を用意して渡した。
傘の硬い紙を受け取った朱鷺貴は、少し殺したような、浅い息を吐いてからすらすらと字を書き、それから毬にその紙を返して瞑想するように合掌する。
沈黙。
声なき経が朱鷺貴の胸を鎮める。
人は死んだらそこから薄れ逝くのもまた|性《さが》だ。どれほど痛烈や激情を遺したところで、それは変わらない。廃退はする、虚無に霧散してしまうほどに人一人は大きいのだと朱鷺貴は学んだつもりだ。
だからこそ、こんな形では不便だ。相手も、毬自身も。
終わりの頃だろうか、朱鷺貴が摺付木を擦って香を一摘まみ宙に、祈るように掲げてパラパラと火にくべる姿を見た毬はふと、
終わったんだ。
何故かそう思えた。そう思えれば自然と、じんわり漸く、薄く涙が出てきた気がした。
回想から会葬は終了した。証に朱鷺貴は漸く身動きを取るように毬を見つめて「戒名だ」と、先程書いた紙を説明した。
「戒名とは生きた証だが、死んでから付けられるあの世での名前だ。それを奉らなければ意味がない、届かない。
この首は俺が戒名と共に寺に葬ろう。戒名があれば石くらいは建ててくれる。寺は誰しも平等だからな。
ただ、俺も徳は高くない。と言うか首しかないのなら“首塚”と、寺の端に置かれるだろうが、俺が書いたその戒名でよければ、無縁仏にはならず、君も君の父も、自由に参拝出来るはずだ」
そう言った朱鷺貴は、やっとで表情を少しだけ緩ませた。
「墓がひとつあれば、家族だって、奉れる。死んだら、罪人だろうが町人だろうが、天皇だろうが将軍だろうが一緒だ。それを信じて、その戒名を持てばいい。整理も、そうやってつけて葬らなければならないんだ」
やっと。
「ふっ…うっ…、」
泣き出した毬を翡翠が慰めるように緩く肩を抱く。
正直、坊主に感心したのもあった。
「整理がついたら受け入れるしかない。だから祈りが通じるんだよ」
優しい口調で低く言われるその声に、毬はしばらくそうして泣いていたのだった。
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